東京魔人學園剣風帖

『「遠い未来」のお話』

それは、一学期の中間テストが終わって少々が経った、五月も下旬に差し掛かった頃のことだった。

かったるい午後の授業も終わった、その日の放課後。

東京都新宿の、都立・真神学園三年C組の教室にて。

「……あのさ、蓬莱寺」

授業中は死んだ魚のようになっていたのに、放課後の訪れを告げるチャイムが校内に鳴り響いた途端に元気を取り戻して、毎度の如く、「ラーメンでも食い行くか!」と立ち上がった蓬莱寺京一の傍らに寄り、ちょっぴり思い詰めた顔付きで、彼──緋勇龍麻は小声を出した。

「あ? どした? 緋勇」

「あのー……、さ」

「……何だよ。言いたいことがあるなら、とっとと言え、とっとと」

「その……。今日も、王華? 王華でラーメン?」

「お? おう。そのつもりだけど……、それがどうかしたか? お前も行くだろ?」

肌身離さず携えている得物入りの竹刀袋を手に、が、学生鞄は置き去りにしてしまいそうな勢いで、「ラーメンーー!」と、うるさく喚き立てる無類のラーメン好きな京一の許へソソソ……っと近付き、ずいっと顔も近付け何やら言い出したのに中々本題を告げようとしない龍麻を、「男なら、しゃきっとしろ!」と寄られた当人が急っ突けば、ラーメンがどうたらこうたらと龍麻はブツブツ問い始め、「こいつは一体、何が言いたいんだ……?」と、京一は、己が友の顔をまじまじ見詰めて首傾げた。

「ええと、さ。良かったら、今日は別のラーメン屋にしないかなー、って……」

「あ? そりゃまあ、俺はそれでも構わねえけど? たまにゃ、王華以外のラーメンってのもいいだろうし」

「そう? 実はさ、南口の方に、新しいラーメン屋が出来たらしいんだ。九州ラーメンの店なんだけど、そこ、今週一杯、替え玉が五十円なんだって。だから、お得かなー、って思って……」

「へーー。そいつはいいな。腹一杯食っても懐に響かねえ。……じゃ、今日はそこに行くとするか」

「うん」

ラーメンの話と見せ掛け、実は深刻な話なんじゃ、とまで京一は想像し掛けたが、龍麻が始めたのは、毎度の王華ではなく、新規開店のサービスの一環で大盤振る舞いをしているという新しいラーメン屋に行こう、との誘いで、そんなお得な話があるなら一口乗った! と一も二もなく同意しつつも、ひたすら小声で話す龍麻を、彼は益々訝しむ。

何故、この程度の話を、酷く申し訳なさそうに言うのだろう、と。

けれどもそれは、些細と言えば些細なことだったし、もしかすると龍麻は、行き付けである王華以外のラーメン屋を自分が余り好まないと思っているのかも知れない、と考えた京一は、彼の少々おかしな態度を、その時は流してしまった。

そういう訳で、そうと決まれば、と、京一と龍麻の二人は母校を後にし、新宿駅南口近くの片隅──後、ほんの僅かだけ通りの奥へ進めば、そこはもう渋谷区、という辺りに新装開店を果たした小さなラーメン屋に乗り込んだ。

やはり毎度のメンバーの、クラスメートであり友であり仲間でもある醍醐雄矢や美里葵や桜井小蒔にも声は掛けたが、三人からは、部活や生徒会の雑務が理由の断りが返されたので、二人きりで店を訪れた彼等は、オープン記念のサービスの話を聞き付けて来たらしい人々の列に並び、三十分程の後、やっと、お目当てのラーメンにあり付いた。

二人共に、ラーメンは味噌派な彼等だけれども、豚骨ベースの九州ラーメンも好物の内なので、それはもう嬉々として、運ばれて来た熱々の丼に挑み、一皿五十円の、それはそれは彼等の財布にも優しい替え玉を頼みまくった。

花の十七歳で、現役高校男児の放課後の胃袋はブラックホールのようなものだから、すっかり温くなってしまったスープの中に、これ以上替え玉を突っ込むのは……、と感じざるを得なくなるまで食べ続け、漸く彼等は席を立ち。

向かったレジで、会計を済ませた直後。

「良かった…………」

財布を制服の内ポケットに仕舞いながら、ボソっと、龍麻が呟いた。

「良かった? ここのラーメン、そんなに気に入ったのか?」

独り言だったのだろうそれは、幸か不幸か、京一の耳にも届き。

「……そういう訳じゃなくってさ。そりゃ、美味しかったなー、とは思うんだけど、そのー…………」

「…………何だよ、緋勇。今日は随分、はっきりしねえな」

「う……。…………あの、実を言うとさー……」

短気な彼の目許が、ちょっぴりだけ不機嫌そうに細まったのを見て、龍麻は、店を出て、新宿駅へと続く道を京一と肩並べて歩きながら、何処までもボソボソした小声で、何故、王華でなく、出来たばかりの九州ラーメンの店に行こうと言い出したのかの、真相を語り始めた。

「あん? 何か、秘密でもあんのか?」

「秘密って言うか……。……俺、一人暮らしだろう?」

「……? ああ、そうだな。で?」

「今年に入って一寸した頃から、春になったら東京の新宿にある学校に、なんて話は出始めてたんだけど、時間掛けて、一人暮らしの為の準備とかしてる暇は無くって。だから……、我ながら凄く情けないんだけど、俺、ちゃんとした料理が、未だ出来ないんだよ……」

「あー……。……まあ、コーコーセーのヤローなんざ、大抵はそうだろうな。つか、事情があるとか、料理が趣味とかいうんでもねえ限り、俺達くらいの年頃のヤローが、いきなり一人暮らし始めても困らねえぐらい料理が上手かったら、それはそれで怖いっつーか、気色悪いっつーかだな」

「まあねー……。小さい頃は、夕飯の手伝いとかやらされたけど、この歳になっちゃえば、そんなことも滅多にないし、進んで台所に立ったことなんかないから、出来なくて当然かな、とは思うしさー。こっち来るまでは、俺一人分の食事くらい、どうとでもなるだろう、なんて高括ってたんだけど……」

「……けど?」

「何度かチャレンジしてはみたけど、中々上手く出来ないから、どうしても外食とかコンビニ弁当ばっかりになっちゃって。その所為で、その……財布の中身が、激しく空しいことに……。もっと主婦っぽく言えば、家計が火の車にぃぃぃ……」

「………………なーーるほど。だからお前、今日は、あそこのラーメン屋にって言い出したのか。で、思った通り、今日の飯は何時もよりは懐に痛くなかったから、『良かった』っつった訳か。……納得」

情けない顔で、声で語られた、龍麻の抱える空しい事情を聞き終え、そういうことか、と京一は、歩く足は留めず、竹刀袋を掴んだまま腕を組んだ。

「……そう。そういう訳。……あーもー、どうしよー……。仕送り来るまでの後半月、どーやって暮らそう……。俺、餓死しないでいられる自信無いよ……」

誰にも言い出せずにいた、誠に生活感溢れる悩みを吐き出した所為だろう。

龍麻は、それまで以上に情けない顔を京一へと向け、情けない声で窮地を訴える。

「まあ、食うのに困ったら、家に来りゃ飯くらい食わせてやれるけどよ。だから、餓死するこたぁねえだろうけど、ずーっと今のまんまって訳にもいかねえか……」

「うん……。…………高いんだよ。高過ぎるんだよ、新宿の物価っ! 到底、信じたくないぐらいにっ! こんな……こんな物価の高い大都会なんか、人が住んでいい所じゃない……っ!」

「あのな……。俺は、お前曰くの人が住んじゃいけねえ場所に、生まれた時から住んでんぞ。っとに…………。……それよりも、緋勇。お前、明日の放課後、予定空けとけ。いいな?」

「へ? 予定? うん、別にいいけど。って言うか、元々予定ないし。でも、何で?」

「何ででも。明日になりゃ判るからよ」

窮地の訴え序でに、都会の物価の高さへの文句を喚き立て始めた龍麻を、うるさい、と京一は黙らせ。

翌日の龍麻の予定を押さえると、訳が判らぬままに頷いた彼へ、何やらを企んでいる笑みを拵えた。