東京魔人學園剣風帖
『スクールゾーン』
三年前、通い始めたばかりの頃は、桜の花の薫りに満たされていたその道を、その日、梅の花の薫りを吸い込みながら美里葵は辿っていた。
その日は、三年、彼女が通い続けた母校、東京都立・真神学園高等学校の、卒業式だった。
彼女が、通い慣れたその道を辿る、最後の日。
──葵が未だ、高校受験に挑む中学三年生だった頃。
当時の担任に、本当に真神学園を受験するのか、と彼女はくどいくらい問われた。
彼女の成績ならば、真神学園よりも学力レベルの高い高校に進学することも容易だったし、彼女の家は、都立でなく、私立の高校を選択することを許す家庭事情だったから。
けれど葵は、担任が暗に促してくる、もっと上の学校を……、とのそれに、首を横に振り続けた。
……彼女が、真神学園に進学しようと決めたのは、何処の高校に進もうかと、あちこちの学校を見学している最中のことだった。
自宅のある新宿区内の都立高校は、通学には便利だ。……それ以上の理由は持たず、真神学園を見学に行って、彼女はそこで、『一目惚れ』をした。
学校、という無機質な物相手に使うには相応しくない表現だが、真神学園を初めて目にした瞬間の彼女の心地は、正しく、一目惚れと言うに相応しいそれだった。
懐かしいような……、心の奥がざわめくような……、そう、例えるなら『運命の恋人』に出逢ってしまった、そんな感覚が溢れて、学園そのものに強く惹かれる気持ちが抑えられなくなって、この高校を受験しよう、絶対、この高校に通う生徒になろう、と彼女は決めた。
その彼女の決心はとても固く、担任達に、「勿体無い」とすら言われても意に介さず、念願通り、高校受験を終えた数ヶ月後にやって来た春──三年前の春、彼女は、真神学園の生徒になった。
……一目で焦がれて、望んで、入学すること叶えた真神学園での高校生活は、或る意味で葵の理想通りだった。
男女問わず友人は多く出来たし、可愛がってくれる先輩達も出来たし、成績優秀で品行方正な彼女は、教師達の受けも良かった。
学園での時を積み重ねて行く内、桜井小蒔という名の親友も出来。
彼女自身が意図した訳ではなかったが、良い意味で目立つからだろうか、何時の頃からか、彼女と特に親しい、と言える者達は、学内外での『有名人』達になっていった。
親友となった小蒔も、子供の頃から習っているという弓道の腕前故に、中学時代よりその方面では有名だったし、小蒔以外にも、様々な物議を醸し出す『真神新聞』を一人発行する、情報屋の才能も持ち合わせている遠野杏子、母がプロの占い師で、その母顔負けの占いをしてみせる、オカルト少女としても名高い裏密ミサ、と言った『有名』少女が彼女と親しくなって。
決して素行が悪い訳ではないけれど、転校して来てより暫くが経った頃、吹っ掛けられた喧嘩で三年生の総番を倒してしまった為、一年にしてその座を得ることになった、そういう意味では『不良』とも言えるのかも知れない醍醐雄矢に、入学して半年程が過ぎた頃には既に、真神学園始まって以来の問題児、として名高かった、軽薄で、頭の方は宜しくないと評判の、が、剣術の達人で、ここ一番では頼りになるという評判も高かった蓬莱寺京一、と言った、有名も悪名も馳せる少年達も、年中彼女と言葉を交わすようになった。
────何処までも、或る意味では理想と言える彼女の学園生活は続き、親友や、親しくなった者達との友情が絶えることは有り得ず、彼女は日々、幸せだった。
けれど、満足、ではなかった。
或る意味では理想の筈の、幸せではある学園生活は、何かが足りなかった。
何故、真神学園を初めて目にしたあの日、焦がれる程の想いを抱いたのか、その答えが、その頃の彼女の手にはなかったから。
『運命の恋人』に出逢ってしまった、とすら感じたあの感覚を齎した何かは、きっと、この学園にあるのだと、彼女は盲目的に信じていたから。
彼女は心秘かに、親友の小蒔にも打ち明けぬまま、『足りない何か』を求め続けていた。
…………そうして、入学より二年が経った、三年生に進級した、一九九八年、春。
やって来た、一人の転校生と共に、彼女の手に、求め続けた『足りない何か』が握られた。
──転校生の名は、緋勇龍麻と言った。
とてもとても、印象的な少年だった。
中背で、ほっそりとした体躯で、両の瞳全てを覆ってしまう程に長い前髪に隠された面は女性と見紛う程綺麗に整っていて、何処となくおっとりとしている、今時の高校生としては『控え目』な性格をした、けれど、極々普通の高校三年生で……、でも。
一目見たら、決して忘れられない少年だった。
少なくとも彼女は──葵は、担任のマリア・アルカードに連れられ、龍麻が三年C組の扉を潜った瞬間より、彼から目が離せなかった。
そんな彼と、彼女は直ぐに親しくなれた。隣の席になった、というのも相俟って。
龍麻の訪れと共に、不可思議な事件もやって来て、否応無し、それに巻き込まれて行く日々は始まり、龍麻との親しみが深まるに連れ、彼女を含め、彼と親しくなった者達を取り巻く不可思議で謎ばかりで、そして凄惨な出来事や事件も深まって行き、『学園の聖女』とすら例えられることのある彼女は酷く心を痛め、日々の中で得た『力』の意味を悩んだけれど、龍麻の訪れと共に手に握られた『足りなかった何か』を、彼女は自ら手放そうとはしなかったし、それまでの、或る意味では理想と言える幸せな学園生活でも得られなかったモノは、彼女を満たした。
……そうして、やがて。
そういった事柄とは少々違う次元で、彼女は龍麻を強く意識し始めた。
──元々から葵は、龍麻が転校して来た日より、彼のことが気になっていた。
その頃より、ひょっとして……、と秘かに感じていた自身の予感通り、彼女は、龍麻の中に淡い夢を見始めた。
自分はきっと、龍麻のことが好きなのだと自覚し、彼の『一対』になりたいと、そう思い始めた。
けれど、彼女はそれを誰にも告げなかった。
無論、龍麻自身にも。
淡い夢──恋心が深まって行っても。
龍麻や彼女達を取り巻く不可思議な事件達が、漸くその正体を現し始め、緋勇龍麻は『黄龍の器』なる存在なのだと知り、そんな彼をこの世に産み落とした彼の母が、己と同じ『菩薩眼の娘』であると知ってよりは、自分と龍麻は、惹かれ合うように巡り逢う運命だったのかも知れない、とすら思ったのに、彼と出逢った春は疾うに過ぎ、季節が冬となっても、彼女は唯一人、龍麻を秘かに想い続けた。