修行という名の浪々に出る際、通り過ぎることはあったが、遊び目的で滞在するのは本当に久方振りになる大都会の、イルミネーションの中に溶け込み、擦った揉んだの挙げ句、今夜だけはラーメンはパス、との協定を結び、広東料理の夕餉を平らげて、のんびりとした一夜を彼等が過ごした、翌、一月三十一日。

所謂、その年の旧暦の大晦日に当たる日。

この国ではこの夜、年越しの御馳走を食べ、一晩寝ずに夜明けを迎えるのが習慣となっているので、そろそろ日没がやって来ようかという時刻になっても、街中は、喧噪が増していく一方だった。

ホテルの高層階にある、彼等の部屋の窓からでも、その様子は見て取れた。

──午後になったばかりの頃、

「しゃーないから、おっちゃん等に挨拶行って来るわ」

と、ホテルを出て行った劉は未だ戻って来ておらず。

「どうする? ひーちゃん」

「……どうしようか……。こうしてても、退屈……だよね」

暇を持て余し始めた京一と龍麻は、顔を見合わせ唸り始めた。

…………高校の成績は本当に人並み程度だった龍麻や、底辺ギリギリ、としか言えぬくらい酷かった京一でも、四年近く中国で暮したが為、言葉は達者になった。

高校時代の彼等しか知らない仲間達は、間違いなく目と耳を疑うだろうが、必要に迫られた所為で……と言うか、お陰で、今の二人は、北京語も広東語も客家語も操れるし、多少なら英語も喋れるようになったので、ふらり、街中に出掛けた処で何ら不便はないし、言葉以上に、腕っ節の方は問題無いが……夕べ劉がした話が、どうしても脳裏から離れず、彼等は外出を躊躇っていた。

でも、誕生日の翌日以来、ずっと一緒だった『救いの主』が一人出掛けてしまって直ぐ、二人きりの室内には、如何とも崩し難い緊張感と言うか、居た堪れなさが漂い始め、日没を迎えた今、居心地の悪さはピークに達していた。

会話は途切れがちで、破りたくてどうしようもなくなる沈黙は度々訪れ、しかし、それを破ろうと足掻き、途切れがちな会話を再開してみても、これまでなら意識せずとも続けていられた馬鹿話は上手く絡まらず、そうして口を噤む度、嫌な沈黙は益々嫌味を増して、けれど。

ホテルを一歩出たそこは、劉が近付くなと言っていた三元里地区だから、迂闊には……、と。

二人は、行くも躊躇う、残るのも躊躇う、な状態だった。

「出掛けて……みる? 駅の向こう側なら治安は悪くないって、劉も言ってたし……」

「……そうすっか……。未だ、あいつから連絡ねえしな。一時間くらい、ふらふらする程度なら大丈夫だろ」

だが、結局二人は、持て余すしか出来ない、二人きり、という居た堪れなさを、広州の街全てを覆っている大晦日の喧噪に紛れさせてしまう道を選んだ。

龍麻は、羽織ったコートに手甲と財布だけを突っ込んで、京一は、やはり財布を突っ込んだコートを着込み、得物の入った竹刀袋を肩に担いで、ホテルを出ると、人混みに混ざった。

街中を染め上げんばかりの、下がる提灯の赤色と、装飾の金色と、イルミネーションの極彩色が目に痛く、擦れ違う人々の間を縫うように進む二人の姿勢は、自然、俯き加減になった。

……街中の彩りの派手さだけが、彼等を俯かせている原因ではなかったが。

「………………本当に、大都会だね、広州って」

「……そうだな。凄ぇ賑やかなトコだよな」

「俺……一寸、買い物して来ようかな」

「買い物? 何の?」

「何……って訳じゃないけど……折角だから、そういうのもいいかな、と。だから……一人で行って来る。京一も、好きなトコぶらぶらしておいでよ」

「別に俺は、何がしたい訳でもねえから。……付き合うぜ? ひーちゃん」

「いいよ。目的もない買い物に付き合わせるの、悪いじゃん」

「…………昨日、あんな話されたばっかりなんだぞ。俺は、お前を一人にしときたくねえ」

「……大丈夫だよ。子供じゃないんだから」

「けどよ──

──御免。……悪いけど、一寸だけ一人にして」

当てもなく街を彷徨ってみても、一月末日の寒さが沁みるばかりで、伏せた面は一向に持ち上げられず、限界だ、と龍麻は意を決し、京一から離れて歩き出した。

「……おいっ。ひーちゃんっ!」

「頼むから、放っといてくれってばっ! 今だけだからっ!」

己の傍らから離れ、辿っていた歩道より足早に逸れて行く龍麻へ、京一は声を張り上げ腕を伸ばしたが、伸ばされた彼の指先には掴まれまいと、龍麻は走った。

「……っ。……ひーちゃんっ。おいっ! 龍麻っっ!」

人波の向こう側に姿消してしまった彼を、京一は追い掛けたけれど、追い付くことは出来なかった。

追い付かれまい。今だけは、一人になりたいのだから。

──その一念で龍麻は走り、人波を抜け、又別の人波に溶け込み、出鱈目に幾つもの角を曲がって、京一の氣も気配も感じられなくなった一角に辿り着いて漸く、進む速さを緩め、唯、人々の進む方角へと流されるに任せた。

……そんな風に、夜の広州の街を辿りながら、ぼうっと、彼は想いを巡らす。

────『答え』は、もう出ていた。

二十二の誕生日の夜を終えて直ぐに。

何故、京一と接吻くちづけを交わしたのを、嫌とは思わなかったのか。

何故、今になって、自分にとっての京一は、本当は何なのかと思い煩い始めたのか。

……その問いに対する答えを、龍麻は、もう得ていた。

深く考えるまでもなかった。『現実』は、歴然とし過ぎていた。

幾度となくキスをしても、情熱的なそれへとエスカレートしても、流されるまま抱かれそうになっても、決して、嫌だ、とは思えなかったのだから、それそのものが答えだ、と龍麻は悟っていた。

高校時代、巡り逢ったあの頃より、大切な親友で、大切な相棒で、掛け替えのない戦友で、誰よりも、何よりも大事な存在である京一のことを、自分は、恋愛の意味でも好きだったのだ、と。

あの当時、散々、仲間達に『濃い』とからかわれた京一との友愛を、何時とも知れぬ内に恋愛へと変えてしまったのか、それとも、友愛の延長上に恋愛もあるのか、それは彼にも解らないけれど。

己が、己も気付かぬまま、京一に対する恋慕の情を抱いていた、というそれを、龍麻にはもう否定出来なかったし、違和感もなかった。

……そう、それが、彼の『答え』。

でも彼には、京一が得たらしい『答え』が解らなかった。

…………京一が得た『答え』は、恐らく己のそれに近いのだろう、とは思う。

最初に、キスをしてみないか、と言い出したのは京一。

あの夜、幾度となく唇を触れ合わせても、彼は嫌とは言わなかった。

言わなかった処か、接吻を愛撫へ変え、抱こうとさえしたのも彼だ。

だから、自分達の、互いに対する想いはきっと、『近しく』はあるのだろうと、そこまでは、龍麻にも解っているのだが。

……あの夜。この行為の『答え』を知っているのだろう? と彼が問い掛けた時、京一は言った。

結局、自分にとって、龍麻は『緋勇龍麻』だった、と。それが『答え』だった、と。

約四年前、中国には一人で行く、と京一が言い出した夜、歌舞伎町の片隅の、小さな小さな公園で告げたのと同じ一言が、彼の『答え』だった。

………………だから、龍麻には、京一の『答え』が正しく解らない。

彼の得た『答え』は、己の『答え』に近しくはある、としか思えない。

……要するに。自分達がそれぞれ得た『答え』は、違う、としか。

故に龍麻は、想いを巡らし、思い悩んでいる。

…………きっと京一は、龍麻は龍麻だ、の一言に、全てを収めてしまえている。

己に対してだけは、彼の中に、友愛と恋愛の境目は存在していないのだろう。

けれど自分には、そんな器用なことは出来ない。

京一のことが好きだったのだ、と気付いてしまった自分は、これから先間違いなく、友愛を求めつつも、より大きい恋愛を、彼に求めてしまうだろう。

好き、の一言を。愛してる、の一言を、彼に求めてしまうようになるだろう。

お前がお前であるならそれでいい、と言ってくれる──好きも、愛してるも必要とはせずに済んでしまう彼に。

友愛の大きさも、恋愛の大きさも、大差ないのだろう彼に、友愛の大きさよりも、恋愛の大きさを求めてしまうだろう自分は…………、……と。

……龍麻はそう思い煩い。唯、街中を彷徨った。

『答え』が重なり合うことないだろう京一から離れて、一人でいたかった。