一九九四年に一斉撤去された、悪名高かった、香港の九龍城砦ガウロンセンチャイの再来のような町並み、再来のような悪名を、広州市・三元里は持っている。

この国に、今尚残る、魔窟の一つ。

……とは言っても、地区の大半は一般的な繁華街であり、二〇〇〇年に大規模な取り締まりが行われて以来、治安は大分改善されているが為。

逃げ出すように京一と分かれ、当て所もなく通りを辿っていた龍麻は、己が、近付くな、と劉に忠告された『魔窟』に迷い込んでしまっていることに、暫くの間気付かなかった。

高い安全が保証されている地区と変わらぬ、春節を祝う為のきつい赤色の提灯が至る所に下がり、通りを埋め尽くす土産物屋の軒先は、一面、観光客が喜びそうな、中国然とした、服、服、服、の洪水で、ここも賑やかな所だなあ……、と、のんびり辺りを見回しながら、何処までも、人混みの流れに乗った。

…………そうこうする内、やっと彼は時間が気になり始めて、腕の時計に目をやった。

時刻はもう、午後十一時過ぎを指していた。

「いい加減、帰ろうかな。京一も、劉も、心配してるかも知れないし……」

京一の傍らより逃げ出してから、そろそろ三時間半になる、と腕時計に教えられ、あー……、と彼は、一人呟く。

大分落ち着いたし、いい加減頭も冷えたし、今夜も三人で摂る筈だった夕食の約束も蹴っ飛ばす結果になってしまったから、ホテルに戻らねば拙いだろうと思った彼は、さて、自分は今何処にいるのだろう、ホテルの場所はどっちだろう、と辺りを見回し。

漸く。

それまで辺りを満たしていた色彩の渦のない、寂れた一角に己が立っていることを知った。

何時の間にやら彼は、流されていた人混みに、路地裏へと弾き飛ばされていたらしい。

大晦日の夜の喧噪も、少々遠くなっていた。

だが、もう一時間もすれば旧正月となるだけあってか、迷い込んだ路地裏には人通りも一応はあり、広州駅への行き方を尋ねようと、彼は、己の方へと歩いて来る『誰か』へ声を掛けた。

「あの、すみません」

「……はい。何か?」

────呼び掛けに応えて足を止めてくれた相手は、女性だった。

高校の頃と殆ど身長の変わらぬ龍麻よりも、若干背の低い、艶のある黒髪を腰以上に伸ばした、チャイニーズビューティーとの言葉が誠似合う女性。

歳の頃は、彼と同じくらいのようだった。

「その……広州駅へ行くには、どうしたらいいか教えて頂きたいんですが」

はっと、息を飲む程の美人の登場に、龍麻も胸をドキリとさせつつ、にっこり、と笑って、駅への道を問うた。

「え、広州駅ですか? 直ぐそこですよ? ……ああ、観光客の方なんですね? …………宜しければ、ご案内しましょうか?」

「いえ、道を教えて頂ければ、それで。お手数お掛けする訳にもいきませんし……」

「あら。遠慮為さらずに。今夜は大晦日ですもの、直ぐそこと言っても、観光客の方が向かわれるには難儀されるでしょう」

道を教えて欲しいと求める彼へ、彼女も又、にっこり、と笑み掛けて、案内をするから、と申し出て来た。

「おらへんなあ……。何処行きよったんやろ、アニキ……。ホテルには、未だ戻っとらんのやろ?」

「ああ。今さっき電話してみたけど、帰ってないって言われたぜ」

──龍麻が、三元里の路地裏にて、中国美人に道を尋ねていた頃。

何時まで経っても龍麻を見付けられぬことに、京一と劉の二人は焦れ始めていた。

「七時頃ホテル出たんやろ? で、半頃アニキと分かれたんやろ? ……京はんとアニキが逸れて、もう三時間半やもんなあ……。十一時も過ぎたし、戻っててもおかしないんやけど……。アニキ、女みたいな長い買い物する方やないし」

「帰り辛い、とか思ってるだけなら、いいんだけどな」

「………………なあ、京はん? 何でアニキと喧嘩なんかしたん?」

「……だから、訊くなっての。忘れろ、そのこと」

「あー、そやったな。………………えーと。後、探しとらんトコっちゅーと。ホンマにヤバい言われとる方か……」

「どれくらいヤバいんだ? そこ」

「子供でも、苦労せんと麻薬が買えるくらいのレベルやな。つーても、アニキなら朝まで放っといても平気やろうけど。……ああ、やけど。そうや……。遠縁のおっちゃん等は、アニキが黄龍の器やってこと知っとるし、この街に、今アニキと京はんがおることも知っとる。そないな可能性は低い思うけど、おっちゃん等のトコから、アニキが今ここにおること、アホンダラ共にもしもバレてたら…………」

「……………………もしも、糞っ垂れ共にひーちゃんのことがバレてて、ひーちゃんの後尾けてたとしたら……襲うには、最適か?」

「そういうこっちゃ」

「行くぞ、劉。どっちだ?」

「言われなくともや。──あっちやで、京はん」

焦れつつ、街角で立ち止まり、顔付き合わせて話し合い。

バッと、二人は駆け出した。

今の世も、『魔窟』と呼ばれ続けている三元里の一角目指して。

駅はこっちですよ、と言いながら歩き出したチャイニーズビューティーに付き従って、龍麻は路地を進んだ。

道幅は余り広くなく、大人三人が並んで歩けるかどうか、と言った処だった。

そんな路地を挟むように並ぶ商店の軒先は、何処も競り合う風に突き出していて、空は見えず、閉店した店々のシャッターの列や、白熱灯の灯りが辛うじて文明を伝えてはいるものの、全体的に、酷く古めかしく、暗く。

変わった所だな、と龍麻は首を傾げた。

何となく、嫌な予感も覚えた。

「あの…………」

「何か?」

「すみません、ここは何処ですか?」

「……ああ。古い商店街ですよ。狭いでしょう? この辺は大昔に建てられた城砦がそのまま残っている所ですから、駅の近くなのに、少し時代錯誤な感じがするんですよ。でも、観光客には受けが良いみたい。……物珍しいんでしょうね」

不安と予感を感じ、先を歩く彼女に地区名を彼は問うたが、女性は笑いながら、そんな説明をするだけで。

「そう……ですね。古い中国を体験出来るみたいで……」

「でしょう? 暗くて、一寸物騒ですけど、駅に行くには、この道が一番の近道なんです」

「成程…………」

まあ、いざとなったらどうとでもなるし、この女性以外の気配がする訳でなし、と、予感と不安は捨てぬまま、彼は更に歩を進めた。

……だが、路地を縫う内に、段々、彼は気分が悪くなり始めた。

最初の内は、何となく気持ち悪いな、と思う程度だったが、その内、胃の中から、胸の中から、洗い浚い吐き出してしまいたい、と感じる程むかつきは酷くなり、無意識の内に、右手は、コートの中のシャツの胸許を掴んでいた。

「どうかなされました? ご気分でも? 顔色が、余り宜しくないみたいですけど」

「いえ、大丈夫です、気にしないで……」

「そうですか? なら、良いですけど……。……ああ、そこを潜れば、もう駅ですよ」

そんな龍麻の様子に、彼女は気付いたようだった。

振り返り、気遣わし気な顔をして、彼の面を覗き込み、急いだ方が良いのかも知れない、とでも思ったのか歩調を早めたので、龍麻も自然、足早になった。