──2003年 02月──

京一達は気付かぬ内に、春節の午前零時を迎えていた広州の街は、戦争が始まったのかと疑ってしまうくらい、うるさく爆竹が鳴り響き、熱気も、人出も最高潮になっていた。

そんな中を、本当に強引に、龍麻を抱き抱えた京一は抜け、何とかホテルの部屋へと辿り着いた。

それより十五分程遅れ、女を取り逃がしてしまった、春節の人混みに紛れられ、見失ってしまったと、口惜しそうに、劉も戻って来た。

厄介な相手であることだけは間違いないらしい、素性の知れぬ女への恨み辛みは幾らでも吐けるけれど、それよりも今は龍麻だと、二人は彼の介抱を始める。

一見、外傷はなさそうに見えた龍麻だったが、どうにも胸が痛いと訴えるので、セーターやシャツを脱がせてみたら、丁度、あの女が符を押し付けていた辺りが、火傷を負ったようになっていた。

だが、京一や劉の活剄や、龍麻の結跏趺坐を使う間もなく、その傷は塞がり始め。

「拙い、かも…………」

「傷の治りが、早過ぎる……」

頂けない事態の前兆かもと、龍麻も京一も、顔を顰めた。

癒しの技も使わず、通常よりも遥かに早いスピードで、独りでに傷が塞がるということは、龍麻の与り知らぬ所で、黄龍の力が働いているのを示しているから。

「アニキ。あの女、誰なん? 何された?」

「それが…………」

二人と同じく、深刻な顔になった劉は、ベッドに横たわる彼を気遣いつつも、事情の説明を求めて、龍麻は、あの女に出会した処から、あの場所に至るまでに起こったことや、あの女が喋っていたことを、全て二人に語った。

「……………………ごっつムカつくわー、あの女…………。っとに、何処のどいつや……」

「さあ。結局名前は白状しなかったから……」

「あの女……お前に何をしようとしたんだ……? あの路地裏をお前引き摺り回したり、札らしい物使って『あいつ』を起こして……。……でも、唯『あいつ』を起こしてみたって、連中にはどうしようもない筈だ」

「どうしようもない、って? 京一、それってどういう意味?」

「『あいつ』が表に出て来た処で、連中には、どうもこうも出来ないって意味だ。──…………その、な。実は……未だ、真神卒業する前から、一つだけ、お前等に隠してたことがある」

「何や? 何、わい等に隠してたんや? 京はん」

「……卒業式の少し前に。俺は、『あいつ』に会った」

酷く具合の悪そうな荒い息を付きながらの龍麻が語った事情を聞き終え、劉も京一も、それまで以上に深刻な面持ちとなり、女の正体や、その目的を思案し始め、話の途中で京一は、腰掛けたベッドに横たわる龍麻からも、傍らに立つ劉からも、若干目を逸らしつつ、『昔の秘密』を告白する。

「え? 黄龍と…………?」

「何やて……?」

「大したことじゃない。その時、何が遭ったって訳でも……ない。一応。唯、ひーちゃんが眠ってる間に、一寸した弾みで出て来た『あいつ』と、喋っただけだ。俺も、『あいつ』に会ったのは、それっきりだし。……でな。その時、『あいつ』が言ってたんだ。自分は、俺達の世界の言葉で言うなら、ひーちゃんの中に封印されてるようなものだけど、自分はひーちゃんで、ひーちゃんは自分だってことは、どうしたって決して覆らないから、自分の想いは兎も角、ひーちゃんの思うこと、ひーちゃんの考えることが、そのまま、自分の思うこと、考えることになる、って。だから、例え『あいつ』──黄龍が表に出て来ても、それは、早々簡単に破れない筈だ。ひーちゃんが願わないことは、黄龍も願わない」

「そう……なのかな。本当に……?」

「黄龍が嘘を吐いた……とは思えねえな。そんなタマでもねえだろうし、『寛永寺』でひーちゃんに宿った直後のあいつは、まるで、産まれたばっかの赤ん坊みたいな処があったから、俺達を騙そうってな、『大人の知恵』は持ってなかったと思うぜ、少なくともあの頃は。それに、やっぱり『寛永寺』で黄龍の奴が言ってた、自分には、自分を受け入れる器だったひーちゃんと、ひーちゃんが大事に想ってくれてる宿星の俺達以外、持てる者も、得られる者も、望む者もないってトコも、今でも有効だろ。死ぬまで変わらねえっつってたんだし。…………ってことは、だ。俺や、俺達が教えられた、黄龍の話のどれ一つ取っても。例え無理矢理叩き起こされて、表に出て来たとしても、黄龍は、自分の──ひーちゃんの望まないことは出来ないし、ひーちゃんがいけ好かなく感じる連中の言うことなんざ、聞きゃしねえってことになるだろ?」

「そうやな……。京はんの、言う通りかも知れん。……なら、あの女は、何考えとったんや? アニキのことも、アニキが広州にいることも知ってたような奴やから、今、京はんが言ったこと、勘付いとっても不思議やないし、そんなん知らんで、唯、黄龍を呼び出そうとしたにしても、あの力を制御する前に、喰われるのがオチや、いうことくらい、想像付くやろ」

『昔の秘密』の告白に目を剥きはしたが、大人しく京一の主張に耳を貸した劉は、そうだと言うなら、益々あの女の目的が判らない、と腕を組み、首を捻った。

「…………………………ねえ、劉」

と、徐に、龍麻が口を開いた。

「何や? アニキ」

「さっきも話したけど、あの女、龍を封じる秘術は、封龍の一族だけに伝わる秘術じゃないって言ってた。この国は広いから、その分、龍穴だって沢山ある、って。……そんなことを言えるってことは、客家の村のじゃない、何処かの龍穴を護って来た一族の、関係者かも知れない」

「……ああ、そやな。その可能性は充分あると思うで」

「俺は、あの女の素性は、その辺りなんじゃないかって思う。劉の一族は、昔からの掟に従って厳しく生きて来たけど、中には、掟に殉じずに、龍を封じるんじゃなくて、龍を得ようと思い始めた一族だって、いるかも知れない。……で、さ。そんな彼女達は、もしかしたら……本当に、もしかしたら、だけど。柳生と同じようなことを、しようとしたんじゃないかな」

「あの、糞っ垂れとか?」

「うん。……今、不意にね、昔のこと思い出したんだ。陰の器にされた『彼』のことを。柳生は、黄龍を降ろした陰の器を操って、この世界を、自分の望む世界に変えようとしてた。そんなあいつが創り上げた、陰の器の彼を俺達が見付けた時、彼には、理性も自我もなかった。……あの時、俺は、龍脈の力を受け止めさせられたから、彼はああなったんだと思い込んだけど……京一に、もう間に合わないって諭されるまで、間に合わないって判ってても、何とかならないかって足掻いたけど、もしも、俺達が見付ける以前から、彼には自我がなかったとしたら? 黄龍の器に、最初から自我がなかったら?」

「………………自我がなかったら……?」

「あ、言い方変えた方がいいのかな。……ええと。……もしも今、俺から自我が消えたら? 黄龍が表に出てる状態で、俺の意思が消えたら? …………今生に現れて、器に宿った黄龍には、器と、器の躯と、宿星達があるだけ。……だったら。その、何もなかったら? 器の躯以外、何も持てなかったら? ヒトの歴史やヒトの世界が、この先どう在るかを自分では定めない、産まれたての赤ん坊みたいな黄龍に、器の躯以外何もなかったら、傍で、ヒトの世界や歴史がどうなるかを定めようとする者に、従うしかなくならない?」

「え、でも、アニキ、それは…………」

「言う程、簡単なことじゃないとは思うよ。俺と黄龍は、もう四年近く結び付いてるし、それだけの年月、俺だって、黄龍を確実に封印したままでいられるように、修行して来たからね」

「だけどよ…………。……なあ?」

「言いたいことは、何となく判るわ、京はん……」

ホテルの天井を見詰めながら、考え考え龍麻が言い出したことを、京一も、劉も、俄には認めたくなく、言葉を濁した。

でも、龍麻は、緩く首を振った。