二月二日の、陽が暮れ始めて来た。

駅が近い所為で、観光客以外にも、春節の休日とは縁を持たないビジネスマン等でごった返す滞在先のホテルのフロント前で、劉は、『最愛の雛乃はん』の為に何時も持ち歩いている、海外対応携帯電話片手に、遠縁の者達と話をしていた。

部屋から電話をした方が手っ取り早かったのだが、京一や龍麻の前で、『アホンダラ共』や、その所業に関する話をするのは何となく気が引けて、わざわざロビーまで下りたのだ。

「判った。じゃあ、それをアニキ達に伝えとく」

携帯の向こう側へ、母国語で手早く答えを返し、ぱちりと彼は電話を切る。

だが、ロビーまで下りて来た第一の目的を果たしても、彼は、エレベーターホールに向かわなかった。

広々としたそこの、待ち合いの為のソファの一つを陣取って、じっと、通話を終えたばかりの携帯を彼は見詰める。

──彼が部屋から抜け出て来たのには、遠縁の者達へ連絡を付ける、という以外に、もう一つ目的があったからだ。

……今回の事件が起こり、龍麻の中の黄龍の封印が緩んでしまったのを知った直後から、劉の頭の片隅を、仲間の一人の顔が、ちらちらと掠めていた。

御門清明、という、当代きっての陰陽師である仲間の顔。

片や中国体系の、片や日本体系の、との相違はあったが、互い、符術を使いこなす劉と御門は、知り合って直ぐの頃から個人的な親睦があって、それは未だに続いているし。

あの女は、自分達の専門分野である符術を使ってきたのだ、封龍の一族サイドの術だけでは手の打ち様がないと言うなら、御門の手を借りよう、と彼は考えた。

御門なら、あの、何処となく嫌味ったらしくも聞こえる言い回しで、何や彼やと言いながらも、助言くらいは絶対にしてくれる、と。

でも。

御門へ相談するのを、龍麻も京一も、嫌だとか、駄目だとは言わないだろうが、本音の部分はどうなのだろう、との引っ掛かりはどうしても拭えなかったし、御門と話をしていたら、余計なことまで洩らしてしまいそうな自分もいることに気付いてしまった彼は、中々、踏ん切りが付けられなかった。

そもそも、老人になっても付き合いは続くだろうあの仲間内は、良くも悪くも勘の鋭い者が多い。

詳細な事情を語る内、流石に打ち明けられた瞬間はショックだった京一と龍麻の『問題』を匂わせてしまうようなことでもあったら、京一に何を言われるか。

「……あーもー。何やねん、もー…………」

故に劉は、手の中の携帯を弄びつつ、ブチブチと愚痴を零して。

「雛乃はんに会いたいなあ……。ピヨちゃん等は、元気しとるやろか……」

日本にいる恋人の雛乃と、雛乃に預けた、可愛いペットであり、最近、新宿中央公園の片隅で始めた『ひよこ占い』の相棒の二匹に思い馳せ、項垂れた。

「それもこれも、なぁんもかんも、あの女の所為やーーー!」

「……その、『あの女』の行方は判ったのかよ」

「うぇ。京はんっ」

最悪、京一に蹴り飛ばされることになっても、御門への連絡は付けなくてはならないと思いつつ、きーーー! と一人雄叫びを上げたら、ポン、と当の京一に肩を叩かれ、彼は慌てて立ち上がる。

「何、ビビってんだ、お前。何か、下らねえことでも考えてたのか?」

「そうやないねんけど……。…………って、京はんこそ、どないしたん?」

ひぇぇ、と小さく叫びながら振り返った先で、怪訝な顔をして見遣って来る京一へ、ブンブンと誤摩化しの手を振り、おや? と劉は首を傾げた。

何故か、京一がコートを羽織っていたので。

「……ああ。今んトコ、普通にしてる分には、色々諸々、これまで通りで問題なさそうだからな。小腹が空いたから、何か摘む物買って来るって、ひーちゃん誤摩化して出て来たんだ。──で? 劉。何か判ったのか?」

「あ、そや。あの女の居場所、掴めたらしいで。おっちゃん等がな、一応、『遣い』出した、て。…………どないする? おっちゃん等に任せるか? それとも、わい等も行くか?」

「場所は?」

「やっぱり、未だ広州におったそうや。アニキのこと、諦めてなかったんやろ。…………光孝寺、言うんがこの街にはあんねんけど──

──そこか? それとも、その寺の近所か? どうやって行けばいい?」

「……まさか、京はん一人で行く気か? 一人で連中んトコ乗り込んで、何する気やっ?」

どうして、京一はこんな格好でロビーまで下りて来たのだろうと訝しみつつ、この話だけは、龍麻込みで話すよりも、京一にだけ話す方が気分が楽だと、遠縁よりの情報を披露し掛けて、劉は、彼の意図を知った。

「…………馬鹿なことしに行く訳じゃねえよ。第一、俺一人じゃねえだろ、『おっちゃん』達の関係者が向かってんだろ?」

「そやけど! わいも行く! 一人では行かせへんっ」

「お前まで付いて来てどうすんだよ。ひーちゃん連れてく訳にゃいかねえんだ。……で?」

「……………………地下鉄乗って、西門口いう駅で降りて、十分くらい歩いた所に、光孝寺言うんがあるさかい、そっから…………──

────判った。…………弦月。龍麻のこと、頼むな」

意図を知り、一人で乗り込むなんてと、劉は京一を止めようとしたが。

嘘と正論の混ざった科白で劉を黙らせ、京一はにこりと微笑むと、弦月、と友を呼び、右手を軽くだけ上げ、竹刀袋を担ぎ直しながら、ロビーの人混みの中に消えて行った。

「嘘やろ? 京はん…………」

──龍麻が、仲間の中でも京一だけしか名前で呼ばぬように。

京一も、滅多に、他人を名前では呼ばない。……女性は別だが、男相手には。

彼が、名字でない名を呼ぶのは、龍麻を抜かせば、一番弟子である年下の彼──仲間の一人の霧島と、そして、何時だったか、冗談めかし、「ひーちゃんの義弟ってことは、俺にとっても義弟みたいなもんだよなー」と言って退けた劉を、時折。

…………そう、彼は。

彼の中の、彼にしか判らない『何か』に触れた者しか、名前を呼ばない。例え、大切な仲間や友であっても。

大切な仲間や友であることと、『何か』に触れるのは、京一にとっては別次元。

……だから、今、その『名』で呼ばれて。…………呼ばれてしまって。

劉は、人波に紛れて行く京一を追うことも、止めることも出来なかった。

『名』を呼ばれ、龍麻を託されてしまったから。

付いて来るなと、余りに如実に背中が語っていたから。

「でもな、京はん。わいかて、そないに優しい男やないで?」

卑怯、とも言える呼び方で留められ、唖然と京一を見送るしか出来なかったが、彼の後ろ姿が全て消え去る頃、劉はぽつり呟き、爪が食い込む程拳を握り締めると、上衣の裾翻して走り出し、龍麻のいる部屋へと向かった。