教えられた通り、地下鉄の広州駅から電車に乗り込み、西口門駅で降りて、観光名所の一つである光孝寺前を、京一は通り過ぎた。
ふと、寺へと横目を流せば、陽が落ちた、西側だけが若干茜色の空の中に、この国の寺院にしては珍しい、落ち着いた色遣いの建物が、夕闇の中に滲むように潜んでいるのが見えた。
柳生の糞っ垂れと戦ったのも『寛永寺』だった、俺達は、辛気臭い寺に縁があるのかもな、と皮肉な笑いに口角を歪め、彼は足を早める。
──あの阿婆擦れ達の所へ乗り込んで、一人だけで何かをしようという訳じゃない。
劉に告げたことは嘘じゃない。
第一、自分が連中の所へ辿り着く前に、劉の遠縁の『遣い』とやらが、到着してしまうだろう。
だから、馬鹿なことをしようとか、思っているんじゃなくて。
唯、自分の手であの女共の口を割らせて、龍麻の為に何をしたらいいのか白状させたい、と思うだけだ。
…………そして、もしも。『最悪の事態』を迎えてしまったら。
龍麻の為に出来ることなど、何一つもないと暴かれるようなことにでもなったら。
龍麻のことを、黄龍の器とか、黄龍の化身とか、そんな風にだけしか見ない連中が、どうしたって、龍麻を諦めないと言い張ったら…………────。
……足を早め、中国・華南地方で最も古い建造物である光孝寺前を通り過ぎつつ、京一は、肩に担ぎ続ける竹刀袋を掴む手に、力を籠め直した。
………………異形のモノであろうと、ヒトであろうと。男であろうと、女であろうと。若かろうと、老いていようと。
己は、龍麻に徒なすモノであるなら、眉も顰めず斬り捨て、雑作も無く命を奪うのだろう、と。
二月から三月に掛けての広州は、雲天と長雨が続く。
寒暖も激しく、日本の初夏のような陽気の日もあれば、冷え込みが厳しい日もある。
…………二月二日は正しく、そんな広州の陽気そのものの天候となって、宵の口が終わる頃には、ぐんと気温が下がり、氷雨が降り出した。
「……俺も行く」
──高層階のその部屋の窓も、しとしとと雨が濡らし始める中。
ロビーより戻って来た劉から、事の成り行きを語られた龍麻は、硬い顔付きで立ち上がった。
「アニキ」
京一の行方を知り、己もと、コートを取るべくクローゼットの前に向かった彼を、劉は呼び止める。
「何?」
「包み隠さへんで、アニキには成り行き話したんやけど。わいも、京はんと意見は一緒や。アニキは、行くべきやないって思う。何がどうなるかも判らへんし、あの符のホンマの役目も、そうやって決まった訳やない。京はんには、アニキのこと頼む、ちう言われてしもたことでもあるし。やから、わいが、京はんが一人行ってしもうたこと話したんは、アニキまで行かせる為やないんやけど、でもな、アニキ」
「……うん」
「わいは、アニキが大事やから。京はんかて、大事な仲間で友人やけど、アニキのこと大事やから、教えたんよ。……京はんが帰って来よるまで、何も言わんとってた方が優しかったんかもな。教えたったのに行かせんちうんは、アニキにしてみれば、狡い話かも知れへん。そやけど、アニキは京はんが何処行きよったか、知っとくべきや思うねん。……何処に行ってしもたかも判らへんで、不安になるんは嫌やろ? 京はんも京はんで、狡い、て思うし。…………やけど、わいはアニキのこと止める。京はんに頼まれたからと違ごて、わい自身が、アニキは行くべきやないって思うさかい」
「………………そっか。……有り難う、劉。でも、俺は──」
「──やから。京はんは、オノレで決めて、一人で行ったやろ? わいかて、オノレで決めて、アニキにこのこと話して、アニキのこと止めるってぬかしとるやろ? そやけど、それは、京はんが決めたことで、わいが決めたことやろ? …………アニキは、どないするん?」
実兄思いの実弟が咎める口調そのもので、劉は、呼び止めた彼にはっきりと言い切り、どうするのだと尋ねた。
「劉の答えが、『俺を止める』でも。行くよ。俺は、そう決めた」
それでも、龍麻の答えは変わらず。
唯、声音だけが強くなった。
「やったら、ほんでええんちゃう? 京はんはオノレで決めて一人で行った。アニキもオノレで決めて後追っ掛ける。わいはアニキを止めるて決めたけど、止められへんかったらそれまでやし、そうなりよったら、一緒に行くだけや。やけど、行くんは、おっちゃん等に向こうの様子聞いてからにしようや?」
「…………………………劉」
「何や? アニキ」
「俺……いい弟持ったー……」
「……しみじみ言わんとってくれるか。ごっつ恥ずかしいわ……」
「あは。御免。──じゃあ、連絡取ってくれる?」
「任しとき」
確かに強く、その意思を持つならと、にこり笑った劉へ、龍麻はフルフルと握り拳を固めながら感慨を洩らし。
昔から、別嬪さんだ、別嬪さんだと思い続けて来た彼が、ふわっと浮かべた笑顔に、迂闊にも赤面しながら劉は、ポケットの中の携帯を探った。
劉に白状させた女の居場所は、光孝寺裏にひっそりと建つ、古びた雑居ビルだった。
危うい発展を続ける中国と、頑に伝統を守る中国の狭間に、ぽつんと取り残されたような、何処となく、中途半端な印象の。
半ブロック先の、目的の雑居ビルを見遣り、京一は、そんな感想を持った。
──ホテルからここへと向かう途中、前触れもなく降り出した氷雨は止む気配を見せず、しとしとと、彼も、くすんだコンクリート色した四階建ての雑居ビルも、疾っくの昔に雨色に染めていて、不意に、『重い』との感情だけに自分を支配された彼は、何も考えず、脱いだコートを足許に放り捨てる。
ポケットの中には何も無い、どうした処で惜しくもない、安物のコート。
上衣を捨て去ることよりも、雨を含み過ぎて重い、の気持ちの方が、彼には強かった。
何故か、そんな馬鹿な行いに走っても、寒さは感じなかった。
寒いよりも、他の何よりも、「ああ、軽い」、それだけにホッとし、彼は再び雑居ビルを見上げ、辺りも見た。
傍目には、上衣まで脱ぎ去り冷たい雨に好んで打たれている、気の触れたような男が、ぼんやり視線を彷徨わせている、と見えるだろう風情で。
でも、彼の鳶色の瞳は、常人には見遣れない、氷雨の向こう側に潜む幾つかの影を。
彼の肌と感覚は、幾つかの氣と気配を。
きちんと見付けていた。
……と、佇む彼に、すっと、見付けた影の一つが近付いて来た。
「…………蓬莱寺京一さん、ですね?」
「ああ」
中年男性の形を取った影に殺気は感じられなかったから、寄って来るに任せ、名を呼ぶ声に億劫そうに応えを返し、言い分に耳を貸して。
「我々は、封龍の一族に縁の者です。劉弦月から、話は伺っております」
「……お前達が、劉の遠縁だって証拠はあんのか?」
「貴方が、今日、この時間にここにやって来たことを、あの者達に知れると思いますか?」
「………………納得してやるよ」
一応、頷けはする回答だ、と京一は軽く唇の端を持ち上げ、正体を明かした中年男性と共に、氷雨の向こう側に進んだ。