近々に、取り壊されることでも決まっているのだろうか、人気の少ない、しん……と静まり返った雑居ビルに、男達と共に京一は踏み込んだ。
エレベーターはなく、一昔前のカンフー映画のアクションシーンを思い起こさせるような、如何にも、な雰囲気の造りの廊下、そして階段を、彼は、身に浴び過ぎた氷雨を滴らせながら行った。
…………そうしていたら、不意に。
真神卒業を目前に控えたあの年の二月、中国へ一人で行くの行かないので龍麻と揉めた夜、醍醐に喰らった説教を、彼は思い出した。
「……今のお前の一番の欠点は、龍麻のことになると、真っ先に自分を切り捨てることだ。龍麻の気持ちも、考えてやれ」
………………と、笑みながらもはっきり告げて来た、親友の一人である彼のそれを。
────ああ、そうだ。あの頃の俺は、そうだった。
そして今も、そうなんだろう。
龍麻のことになると、自分も忘れる。他の誰も彼も、どうでも良くなる。
俺にとっての絶対の存在、龍麻を護る、そんな自分の気持ちだけが、この世の、世界の全てになって、龍麻の気持ちさえ届いて来なくなる。
だから多分、俺は今、こうしている。
……ひーちゃん。…………龍麻。
龍麻、龍麻、龍麻。
俺にとってお前は、何処までも『緋勇龍麻』で、絶対の存在で、俺はこんなにも、我が儘に、卑怯に、身勝手に、一方的に、お前の気持ちすら顧みないまで、お前のことを想っているのに。
生涯、お前と共に在って、お前の背中とお前自身を護り通す、それが俺の人生だって、そう決めたのに。
どうして俺はお前に、愛してる、の一言が告げられないんだろう。
どうしてお前は、こんなにも、『緋勇龍麻』なんだろう。
なのにどうして、俺はお前を抱いたんだろう。
……俺、お前のことが『好き』だ。惚れてる。
でも、お前なら抱けるから抱いたのか、お前だけを抱きたいと想って抱いたのか、俺には今でも解らない。
好きの本当が何処に在ろうと、『好き』なら抱けるし、抱かれるだろう? 人間なんて。
どんな種類の『好き』だって、『好き』なら抱き合えちまう。
だから、解らない。俺の心の針が、何処に振れてるのか。それとも、振れてないのか。
『好き』ではあるから、惚れてはいるから、欲を伴えただけなんだろうか。
『愛している』は、『欲をも伴う全て』だけど。
俺は…………。
……ひーちゃん。ひーちゃん。……龍麻…………。
決着は、思いの外早く着いた。
思いの外早く、と言うよりは、余りにもあっさりと、そして呆気無く。
溜息も出ぬ程、簡単に。
────殆ど人気の感じられない、廃ビルのような四階建てのそこの三階を、あの女達は占めていた。
重たい鉄の扉を『技』で吹き飛ばし、ガラン……、としたワンフロアぶち抜きの部屋に一歩を踏み込んだ時、咄嗟に京一が思ったのは、裏密の奴なら目を輝かせるかも知れない、という場違いな感想だった。
電気の灯りはなく、窓の張りだの床だのに直接立てられた山程の蝋燭を光源にした室内の床の中央を、注連縄のような──と京一は思った──物が四角く囲み、その中には、八掛鏡としか思えない、けれど、時折劉が弄っている八掛鏡とは絶対に何かが違うと京一でも言い切れる、不思議……否、歪な模様が、黒い砂で描かれてあり。
壁に沿うように立った幾人かの男達が見守る中、女はその中心で、霊符を手に何やらをしていた。
その行いが一体何なのか、床に描かれた模様にどんな意味があるのか、京一には全く判らなかったが、共に踏み込んだ者達は、一様にハッと息を飲むような気配を漂わせたし、室内を覆う氣は、直ぐにでも振り払いたいと感じる嫌な類いのものだったので、決して暖かく見守れるような術ではないと、京一は刀を構え直し、『円空旋』を放った。
技は疾風を巻き起こし、女を中心に頂く歪な模様を象る砂を崩し、整った面を持つ彼女の頬に、一筋の傷を残した。
「護人……っ」
止まらぬ血をタラタラと滴らせる頬をそれでも押さえ、女は凄まじい形相を京一へ向け、が直後、ニタリ、と鬼女の如くに嗤った。
「貴方、私を倒せば、あの黄龍の器を助けられるとでも思っているの?」
そうしてその先、酷く楽し気に、まるで歌うように、女は、京一へと存分に言い放った。
「その様子なら、あの霊符の役目の察しは付いているのでしょう? ……でも、残念ね。あの霊符の力は絶対よ。解く術なんか何処にもないわ。あんな風な、不完全な形になってしまったことだけが口惜しいけれど……でも、不完全だからこそ。もう、私自身にもどうしようもないの」
「……どうしようもない、それが本当なら、今、ここで、お前達がしようとしていたことは何なんだ」
高らかに嗤う彼女へ、極力声を抑え、冷静さを保つ振りだけはして京一は言った。
「何だっていいじゃない。貴方には関係ないことでしょう?」
そんな彼の態度も問いも、女は鼻先で嗤い飛ばした。
「その程度のことしか言えねえってことは、所詮、最後の悪足掻きをしようとしてた、ってトコか。……残念だったな。その、奇妙な模様は崩れちまった。もう、術は中断だな」
向けられた、下卑た嗤いに相応しいだけの嗤いと言い種を、京一は返す。
「そうね。何も彼もが中途半端なまま打ち止め。────でも」
すれば彼女は、すっ……と、鼻先辺りで血塗れの人差し指をピッと立てて。
「でも?」
「何も彼もが中途半端だから。黄龍を手に入れる、その望みが今は叶わない代わりに。私達が黄龍の器に掛けた、呪とも言える術は解けない。決して。──器の中の黄龍は、もう目醒め掛けてる。そして、何時の日か目醒める。貴方達には為す術もないまま。そうして静かに、器の心は死ぬの。私達は唯、その日を待てばいい。……残念だったわね、護人。護人のくせに、肝心な時に、黄龍も、黄龍の器も護れなくて」
彼女はもう一度……、高らかに嗤った。
「……そうだってなら。てめえ等の一族全て、根絶やしにするまでだ」
女の、嘘とは思えぬ宣言を受けて、京一は、白刃の切っ先を彼女へと向けたまま、静かに部屋を横切り始める。
「やれるものなら、やってご覧なさい。例え、私達が死んでも。私達の一族が絶えても。貴方達が滅ぼした、柳生宗崇のように。私達一族のように。己が望む世を得ようとする者は後を絶たない筈よ。……貴方は、その者達全て、斬り捨てて生きてゆける? 何時、心が死んでしまうかも判らない器を護り続けながら、一生、ヒトも異形も斬り捨ててゆける? あの彼の為に。この世界の為に。貴方が死ぬまで」
近付く切っ先を見詰めながら、女も又、仲間が投げて寄越した一対の胡蝶刀を受け取り、両手に構え、トン、と床を蹴って、一息に京一との距離を詰めた。
「貴方みたいな男に殺られるのは、業腹なのよ」
最期に、一言、そう呟いて。
────だから。
『勝敗』は、溜息を吐くよりも、簡単に。