厦門で龍麻達と京一が分かれてより二日が過ぎた、二月六日。

その日の夕暮れが訪れた。

梢の向こうに崑崙山脈が綺麗に映える雄大な景色の中、陽光がソロソロと西に傾いて行くのを眺め、まるで瞑想する僧侶のように身の動きを止めていた京一は、一度、ゆっくりと瞬きをした。

「流石に、どっかに転がり込まねえと、凍死するよな、洒落じゃなく」

日没を迎え、森林の外気は冷えを増しつつあり、ふるりと寒さに身を震わせた彼は立ち上がろうとしたけれど、どうしてもそんな気持ちになれなくて、昼前から凭れていた大樹の根元に大の字で引っ繰り返った。

「何やってんだかな、俺は…………」

視界の中から山肌は消え、茜色の空と、流れる雲と、冬でも変わらぬ針葉樹の深緑だけに景色は染まり、やれやれと、彼は瞼を閉ざす。

──────と。

人里離れている筈の──己以外は誰もいないと思っていた森林の、直ぐ近くから人の気配を感じ、彼は、握り続けていた竹刀袋を胸許に引き寄せ、口紐を解いた。

──猟師か何かか? ここって、熊出たっけかな。……幾ら何でも、虎は出ねえよなあ……って、人間の気配だもんな、虎の訳ねえよな、何考えてんだ、俺。

…………口紐を解き、するりと布地を鞘より滑らせながら、いい加減なことをつらつらと考えつつ起き上がろうとして、途端、彼は息を飲む。

間違いなく、己を目指して近付いて来ているらしい気配に、心当たりがあり過ぎた。

「……嘘だろ…………?」

覚えのあり過ぎる気配に一瞬唖然となり、刀の柄に手を掛けたまま、身を起こすことも忘れれば、サク……と、下草や苔を踏みしだく足音を立てながら近付いて来た気配は、京一の頭上で立ち止まり、

「行き倒れか? 糞餓鬼」

「そっちこそ。ちゃんと足付いてんだろうな、クソジジイ」

「相変らず、口だけは減らねえな。…………こんな所で、何やってやがる? 馬鹿弟子」

「それは、俺の科白じゃねえのか? 馬鹿シショー」

頭の天辺辺りでふんぞり返るように立ちながら顔を覗き込んで来た気配の主に、京一は視線を合わせ、悪態を吐いた。

「ほーーーーーーーー……お」

すれば、京一に馬鹿シショーと呼び捨てられた男は、すとん、とその場にしゃがみ込み、片膝を付き。

「何時まで経っても、師匠に対する口の利き方を覚えねえのは、この口か? あ? ……そーか、そーか。そこまで出来が悪い口しか持てねえってんなら、要らねえよなあ? 今直ぐ俺が、取ってやる」

ニッコニコ笑いながら、ギリギリと、京一の口の端を摘まみ上げ、捻りまでも加えた。

「痛でーーーーっ! ……こ、この……っ。離せっ。離せよ、クソジジイっ! 馬鹿シショーっっ」

「……あー?」

「…………っ。すいませんでしたっ! 俺が悪うございましたっ、師匠っ!」

渾身以外の何物でもない力で頬を捻り上げられて、ジタバタ暴れてはみたものの、どうしても腕を振り解けず、痛みに耐え兼ねた京一は、渋々、白旗を上げる。

「判れば良し」

一応の謝罪に、パッと腕を離し、肩を竦めながら男は立ち上がって、この野郎、と睨み付けつつ、京一もそれに倣った。

「で、だ。……お前、何でここにいる?」

立ち上がり、姿勢を正し、顎に手を添えながら、男は、矯めつ眇めつつ京一を眺め。

「だから、それは俺の科白だっての…………」

──俺、確かにホータン行きの飛行機に乗ったよな。だってのに何で、こいつがいやがる。ここは崑崙山脈の麓じゃなくって、日光江戸村忍の里です、って言われても信じられるよーな、相変らずの格好して……。

と、内心でのみブチブチ文句を吐きながら、時代錯誤も甚だしい、中国という国柄も一切無視した、江戸時代の素浪人そのもののような相手の風体を、京一は眺め返した。

季節問わず着流し姿でふらふらしていた昔に比べれば、鳶コートを肩に羽織っている分、進歩だとは思うが、己のように色素の薄い赤茶のザンバラ髪も、似過ぎている色した瞳の光も、親子に間違われたことすらある面立ちも、何処までも相変らず……、と。

「……まあ、んなこたぁどうでもいいか。俺がここで何をしていようがお前にゃ関係ねえように、お前がここで何をしていようがな。………………それよりも、馬鹿弟子」

「何だよ、馬鹿師匠」

「…………もう一遍、痛ぇ目、見てえか?」

「すいません。もういいです」

「懲りねえ奴だな、てめぇも。────それよりも。馬鹿弟子。お前、暫く見ねぇ間に、ちょいと顔付き変わったな?」

「……顔付き? 俺が、歳食ったからじゃなくてか?」

「ああ、そういうんじゃなくてよ。…………ああ、そうか。お前、ヒトを斬ったのか。一丁前に、ヒトも異形も斬り捨てられる程、大事な相手に巡り逢ったか。……成程な」

「……………………何で、んなことが判んだよ、てめえに」

「判らねえ訳ねえだろ、お前みてぇな餓鬼とは、年季が違ぇんだよ。……まあ、いいやな。ここは、寒くていけねえ。付いてきな」

────大樹の根元にて、男──師匠と京一は暫し向き合い、十年近く振りに言葉を交わして、久方振りに出会った弟子の顔付きに何やらを思ったらしい師匠は、くい、と顎を杓って歩き出し。

京一は、黙って、その後を付いて行った。

暫く、森林の中を縫うように歩き、そうして辿り着いた場所は小さな山小屋で、どう考えても、猟師か誰かのそれを勝手に拝借している、としか京一には思えなかったが、師に促されるまま彼は中に踏み入り、何故か火が焚かれたままだった薪ストーブの傍に、ガタガタ言う、小振りな木の椅子を引き摺り出して座った。

「風の噂に聞いたぜ。四年前の話」

師も又、弟子同様、引き摺って来た椅子の上にドカリと腰掛け、裾を捲り上げつつ、片方の太腿にもう片方の足先を乗せた。

「俺も聞いた。封龍の一族の村で起こった出来事の時、あんたもいた、って」

「誰に?」

「龍山のじー様と、道心のジジイ」

「あー……。辻占と生臭坊主か。碌なこと教えねえな、あいつ等。……ま、それも、どうだっていい。────馬鹿弟子。お前も、ちったあ大人になったようだからな。問答無用で性根叩き直してやる前に、一応、話は聞いてやる。吐き出しちまいたいことがあるなら、ぶちまけてみな。迷いがあるから、こんな山ん中にいるんだろう?」

バチリバチリと、ストーブの中でうるさく薪が爆ぜる音に耳貸しつつ、小屋へと京一を引き摺り込んだ師は、思う処でもあるのか、唐突に、そんなことを言い出した。

「吐き出しちまいたいことって言われても…………」

思い遣り──多分、だが──ではあるのだろう促しを受けても、京一は言い淀み、随分と長い間、言葉を飲み込む風にしていたが。

「…………………………十七の春に。誰よりも、何よりも大事な奴に逢った」

やがて彼は、ボソリと、胸の内を吐き出し始める。

「そんで?」

「あいつに出逢って初めて、昔、あんたが言ってたことの意味が解った。情けねえ話だけど。……あいつと一緒に戦う為にも、強くなりてぇって思った。東京を護るとか、この世界がどうとか、そんなご大層なことの為に戦いたいとは思わなかったし、思いもしなかったけど、あいつの為になら戦いたいと思ったし、誰かを、何かを護る為に、誰かを、何かを斬らなきゃならねえんなら、そうする、って思って。異形も斬ったし、ヒトだった異形も斬った」

「…………まあ、餓鬼にしちゃ、上出来の方じゃねえのか?」

「ガキガキって、うるせえってんだよ……っ」

彼が、そこまで語った処で、師は意地悪く笑みつつ茶々を入れ、この野郎と、京一は両の眦を吊り上げ掛けたが、何とか思い直し。

「……でも。俺は結局、何時だって、肝心な時にあいつを護れなかった。俺もあいつも、今、こうして生きてっけど。肝心要の時には何にも出来なくて、何時も何時も、ギリギリで何とかして来られただけで。一週間くらい前に、広州で揉め事起こった時も、俺は間に合わなかった。護れなかった。何時だって、そうだ……。……護れなかったんなら、せめて、って。せめて、これ以上あいつに何も無いように、そう思って。あいつの為になるんなら、ヒトでしかない人だって、異形だって、俺は斬り捨てるんだろうし、そうするって思ったのに、俺が倒さなきゃならなかった女は、自殺するみたいに、勝手に俺の刀の前に飛び込んで来て、勝手に、てめぇの胸を裂いた。……あの時だって、俺は唯、馬鹿みたいに………………」

……はあ、と溜息を零しながら彼は、ボソボソとした吐露を続けた。