二月二十八日。
封龍の里では、寒緋桜が満開になった。
ここ中国でも、一月から三月に掛けて、染井吉野とは全く違う、釣り鐘状にすぼまった濃い桃色の花を枝垂れ咲かせる桜。
一月の終わり、広州へ発つ前は辺り一面雪だったのに、二月の中旬から下旬に掛けて、やけに暖かい日が続いた所為か、雪景色はすっかり消え去り、今は辺り一面、濃い桃色だった。
「今日には、京はん戻って来よるよなあ? 早よ戻って来よったらええのに。ほしたら、ギリギリ花見も出来るっちゅーねん」
「大丈夫だって。京一なら、ちゃんと戻って来るよ。自分から言ったんだし」
午後半ば、小休止でもしようかと、修行の手を止め、小屋近くの土手に座り込み寒緋桜を眺めながら、このままでは夕方になってしまう、とソワソワし始めた劉へ、龍麻は笑顔を向けた。
「そうやな! うん、そうやっ」
「遅刻魔だけどねえ……」
「……そうやな…………。……あー、それにしたかて、京はんーー! ……な、なあ、アニキ? わい、やっぱり、日本戻る日延ばそうか……?」
「駄目。ちゃんと、明日には出立しないと。雛乃さんと約束したんだろう? 悲しむよ、雛乃さんが」
「そやかて……」
その笑みに笑みで応え、龍麻の調子に言葉を合わせつつも、二月上旬、厦門の街で分かれてより、龍麻が、これまで通りの日々を送りながらも京一が戻って来ると約束した日をこっそり指折り数えていたのも、段々と落ち込んでいるらしい表情を隠せなくなって来ているのも知っていた劉は、やきもきする気持ちを止められず、辛抱堪らん! と立ち上がる。
「大丈夫だって。落ち着きなよ」
「アニキー……。なしてそないに…………。…………平気なん? ホンマのトコは、平気やないんやろ?」
「平気だよ。遅刻はするかも知れないけど、京一が戻って来ない筈無いって判ってるから、俺は平気。でも…………淋しい、かな」
お前がソワソワすることはないと、時追う毎に挙動不審になっていく劉の服の裾を引き、強引に座らせ、やっと、龍麻は少しだけ本音を洩らした。
「淋しゅうなかったら、おかしいで?」
「…………そうだね。……淋しい。すっ……ごく、淋しい……。たった三週間のことだったのになあ……。俺、やっぱり、色々駄目なのかなあ…………」
義兄弟としての元々の仲の良さに加えて、変わってしまった京一との関係をバラした気安さか、一度、劉へと堰を切ってしまった本音は、彼の口から洩れ続け。
「京一が、もしも遅刻したら、暴力に訴えてやるっ……」
彼は最後に、はぁ、と溜息を零した。
その大きな溜息は、土手に座る彼等の背後で微かに鳴った、草を踏む音を掻き消し。
「そんな必要ねえよ。つか、何で何か遭る度、お前はそうも暴力的になるんだかな」
……そうやって話し掛けられるまで、近付いて来た『彼』の気配を、二人に悟らせなかった。
「………………京一?」
「おう。……ただいま」
「……京一が遅刻しないなんて、珍しい……」
「俺だって、ここぞって時にくらい、きちんと約束守るぜ?」
背後から投げられた声にビクリと肩を震わせ、途端、手に取るように判った気配と氣に慌てて振り返れば、そこには、パンパンに膨れ上がった紫色の竹刀袋と、小さな紙袋を下げている京一の姿があり。
「おかえり……」
バッと立ち上がり、約束通りに帰って来てくれた彼へと駆け寄った龍麻は、俯きながら、ギュッと、京一のコートの袖を掴んだ。
「よう、劉。悪かったな、留守番させちまって」
「……わい、茶ぁ淹れに行って来よるし」
そんな風情になった龍麻を緩く抱き締めつつ、京一は申し訳なさそうに、複雑な表情で見上げてくる劉へとウィンクを一つしてみせ、やれやれ……、と腰を上げた劉は、京一の尻を軽く蹴り上げると、一足先に小屋へと戻って行った。
「御免な? ひーちゃん。半月以上も、勝手しちまってさ。あんなことが遭ったばっかりだってのに……心細かったろ?」
サクサクと、草踏みしだきながら土手を下りて行く劉の気配が全て消えるまでを待って、京一は、龍麻を抱き締める腕に力を込めた。
「そうでもないけど……。……でも…………」
「でも?」
「今までずっと、京一と一緒だったからさ。…………淋しかった」
強く抱き込まれ、袖を掴んでいた手を京一の背中へと滑らせ、龍麻は、正直に想いを告げる。
「……そっか。………………御免な」
ぽつり、と洩らされた、淋しかったの一言に、京一は微かに眉を顰め、龍麻の額に、頬に、唇に、キスを落として。
「さ、小屋戻ろうぜ? 劉が淹れてくれてる茶でも啜りながら、土産話聞かせてやるよ」
──帰って来はしたけれど。
未だ、何も言えないけれど。
こんな風に接することしか、やっぱり出来ないけれど。
…………そう思いながら、京一は、龍麻の手を引き土手を下りた。