翌、二〇〇三年 三月一日。

恋人の雛乃と、雛乃の双子の姉である雪乃の大学卒業を祝う為に、再び、第二の故郷・日本へ戻って行った劉を、京一と龍麻の二人は、小屋の前で見送った。

約束通り京一が帰って来たことと、彼の無事の帰還に隠せない喜びを滲ませる龍麻に心底安堵したのか、昨夜からずっと、劉はご機嫌な様子で、三人で囲んだ午後の茶の卓も、夕餉の時も、寝る寸前も、起きた直後も、それこそ、出立するがするまで、この上無く饒舌だった。

結局の処、龍麻自身に降り掛かった問題も、京一と龍麻の間の問題も、何一つとして解決していない処か解決の目処すら立っていないけれど、それでも、義兄が心の底から想っている『相棒』がきちんと帰って来て、以前のように義兄の傍らに寄り添ったことと、夕べ、劉にだけこっそり、義兄が、

「京一がいるから、この先もきっと、何が起きても大丈夫だよ」

と微笑みながら囁いた言葉を、劉は一先ずのよすがとしたらしく。

本当の処は、空元気、なのかも知れないが、ご機嫌で手を振りながら、生まれ故郷を離れて行った。

「行っちまったな、賑やかなのが」

「そうだねえ。又、劉が行っちゃった分、静かになるかな」

喜怒哀楽が激しく、朗らかで賑やかな彼の背中が消えるまで見送って、ぽつり、京一と龍麻は言い合う。

「……………………なあ、ひーちゃん」

「ん?」

若干の淋しさを滲ませながら、互い、一言ずつを交わして、暫しの沈黙を挟んだ後、京一は徐に、龍麻へと向き直った。

「相談がある」

「……相談?」

迫る風に己を見詰め、真剣な表情を湛える京一の言に、龍麻は思わず身構えた。

彼の、少々思い詰めている風にも見える様子は、劉がいる間には口に出来なかったことを、今ここで思い切って……、と言った感なのが手に取れて、京一は一体、何を言い出すのだろうか、と内心で慄きつつ。

「夕べは劉がいたから、本当に土産話しかしなかったけど。お前と離れて一人になって、偶然行き会った馬鹿シショーに稽古付けて貰ったりしながら、俺も、多少は考えたんだ」

「…………うん」

「正直、こんな言い方はしたくねえけどよ。広州でのアレの所為で、今まで以上に、お前は黄龍の奴と付き合ってくの、大変になっちまったろ?」

「そうだね。大変って言うか……。でも、どうしようもないし……」

「ああ。──結局、俺達に残されたのは、ひーちゃんの言った通り、今のままじゃどうしようもない、って事実だけだ。……だからよ。旅に出ねえか?」

「え? 旅? 旅って……?」

だが、京一曰くの相談は、旅に出ないか、との誘いで、ん? と龍麻は訝し気に眉を顰める。

「この先お前はずうっと、起き掛けの『あいつ』を何とかして抑えながら、折り合い付けてかなきゃならない。何時、あの符がお前の正気を奪っちまうかって、そんなこと気にしながら」

「………………うん。そうなるね」

「なのに、今度の一件で思い知らされたように。お前を狙ってる連中は幾らでも転がってて、そんな連中は、お前を手に入れる為なら、手段を選ばない。……なら、今までみたいに、この村跡に留まり続けるのは危険なんじゃねえのか、って思えて来たんだ」

「だから……旅?」

「そうだ。────一遍でも、そんなこと考えながら旅に出たら、延々、それこそ世界中を点々としなきゃならなくなるかも知れねえけど。平穏って奴とは、縁遠くなるかもだけど。そうすることで、少しでもお前が狙われる危険が減るなら、俺はそうしたいって思う」

しかし、複雑な表情を浮かべた龍麻を見下ろす京一の眼差しの強さは変わらず、

「世界って、一口に言っても広いだろ? 何処かには、安心して暮してける場所だってあるかもだし、あちこち訪ね歩いてみりゃ、お前のその状態、何とか出来る方法だって見付かるかも知れない。………………どうだ?」

ひたすら真摯に言い切り、最後にやっと、彼はにこっと笑った。

「………………そんなようなことはね、俺も考えた。京一と離れてた間、ここで劉と二人、今まで通りに過ごしてはいたけど……もう、一つ所にはいられないのかも知れないなあ、って。近い内に、ここも離れた方が……、ともね。でも……だけど……。俺はそれで良くても……って言うか、俺はそうするしかないかもだけど、京一は………………」

──突然、京一が言い出したことは、この三週間と少しの間、薄らではあったけれど、龍麻自身も考えていたことだった。

広州の一件で抱えた問題は解決のさせようがなく、こればっかりは諦めるより他なさそうで、そんな中、少しでも出来ることがあるとしたら……、と。

でも、その道行きに、京一を付き合わせるつもりなど龍麻にはなかった。

それでも傍にいてくれるなら、と思いはしたが、願いにはしなかった。

淋しくて淋しくてどうしようもなかったけれど、約束の日、約束通り、京一は帰って来てくれると信じてはいて、しかし、たった三週間ぽっちの時間で、自分と京一の間に横たわった問題に彼が答えを見出すとは思えなくて、彼が戻って来たら、『別れ』を切り出すつもりでもいた。

………………なのに。

なのに京一は、あっさりと、共に旅に出ようと言った。

だから龍麻は言い淀み、俯くより他なかった。

「何で、そこで詰まるんだよ。バーカ」

そんな龍麻の頭を、ぽこりと京一は叩く。

「だってさ…………」

「……言ったろう? 俺は、お前も、お前の中の『あいつ』も、護り抜いてみせるって。お前が、俺のことを護り抜こうとしてくれてるみたいに。だから、俺はお前の傍にいる」

「京一………………」

「…………何の解決にもならないかも知れない。唯、流転を繰り返すだけで終わるかも知れない。でも、世界の何処かにはきっと、可能性があるんだって、俺は信じてる」

「……京一。俺が……、俺がお前のこと愛してなければ。『一緒に行ってくれる?』って、何の躊躇いもなく、俺はお前に言えたけど。俺は、お前が好きだから。愛してるから。……だから、京一。俺達は、もう…………」

────故に、龍麻は。

本当ならば、広州でのあの雨の夜に言葉にしてしまうべきだった、京一を退ける一言を告げようとしたが。

「ひーちゃん。──龍麻。………………『好き』だ」

それは、嘘ではない京一の言葉に遮られた。

「…………もう……っ。……お前は、どうしてそんなに馬鹿なんだよ……っ」

ではないけれど、龍麻には、『優しい嘘』としか聞こえぬ一言を囁かれて、彼はその場にしゃがみ込んだ。

両手で顔を覆い、泣きそうになるのを堪えながら。