──1998年 08月──

夏と、夏休み真っ盛りの八月。

上旬、九州地方で行われた全国高等学校剣道大会・個人の部で、嫌々ながら向かった割に京一は、見事優勝を果たして地元に戻って来た。

普段の素行の悪さと成績の悪さ故、犬神を筆頭とした教師達に向けられている厳しい目も、個人として最高の戦果を彼が収めてより暫くは緩み、気のない素振りを見せてはいたが、当人も、それなりには満足そうだった。

大会に出場する為、数日間東京を離れていた彼と再会し、優勝の報告を聞いた龍麻も、それを我がことのように喜んだ。

当然、氣や『力』などは使わずに、剣道の技のみで戦って収めた親友のその成績が、龍麻にもちょっぴり自慢だった。

だが、彼等が浮かれていられたのはそこまでで、旧盆の頃から、龍麻と京一と醍醐は灼熱のような暑さの中、補習を受ける為、一週間みっちり学校に通わなくてはならず。

──八月十八日、火曜。

冷暖房完備でなぞある筈も無い公立高の、閑散とした教室で、三人雁首揃え、英語のプリントと戦っていたら。

「…………限界だ……」

朝から、幾度となく付きまくった溜息を又吐いて、コロンと、弄んでいただけだったシャープペンを放り出し、京一は。

「ここは本当に日本かって疑いたくなるくらい暑いってのにっ。こんなことしてられっか! 俺は逃げる、逃げるぞ!」

事もあろうに、校舎三階の窓から逃走を計ろうとした。

「京一っ! 幾らお前が頑丈でも、ここから飛び下りたら死ぬっ!」

「止めてくれるな龍麻! あの太陽の下で、薄着のオネーチャン達が俺を待っている筈なんだ! ……つーか、お前も逃げるか? うん、そうだな、そうするか!」

「駄目だって! この間の剣道大会の成績のお陰で、先生達の風当たりも緩いんだからっ。今真面目にやっとけば、後で絶対報われるから、京一っっ。兎に角、飛び下りようとするなーーー!」

せめても、と思い開け放ったのに、温くて気持ち悪い風だけを運んで来る窓辺に飛び付き、本気で身を乗り出した京一の腰に抱き着いて、大慌てで龍麻が止めれば。

「お前等……。せめて、課題に勤しんでる振りだけでも出来ないのか……」

うんうんと頭を悩ませていたプリントより視線だけは外さず、醍醐が呆れた。

「そんなこと言われたってよー……。──太陽のバカヤローっ!」

「うるさいぞ、京一」

「……ホントに、お前は何処までもお堅い奴だよ。────……龍麻! お前は判ってくれるなっ? 夏の想い出を作りに行こうじゃないかっっ」

「…………だから、京一ぃ……。頼むからさあ……」

だが、京一の喚きは止まらず、仕方無し龍麻は、泣き落としの一手に出た。

「……………………判ったよ……。諦めりゃいいんだろ……」

縋るような視線を彼に向けられ、うっ、と、拗ねたように京一は唇を尖らせると、深い溜息と共に席に戻る。

「……上手い手だな、龍麻」

彼等のやり取りを、ちらっと横目で眺めて、最近は、京一に倣ったのか名字ではなく名前で呼ぶようになった龍麻へ、醍醐は感心を払った。

「確かに、こうも暑いと海にでも行きたくなる気持ちは判るがな」

「そうだろう? 醍醐、お前もそう思うだろう?」

「全部終わったら、海でも何処でも付き合うから。一緒に二人の想い出作るから。ほら、京一、少しは真面目にやるっ!」

「……お前と俺と、二人の想い出じゃなくって、俺達と、オネーチャン達との想い出、な。そこんトコ、間違えんな、龍麻」

「…………暑さでおかしくなってるとしか思えん会話を交わすな。──そろそろ、マリア先生が見回りに来るぞ」

「げ、マジ?」

大人しく席に着き直し、シャープペンを握り直したものの、騒ぎ立てることは止めない京一と、宥め続ける龍麻と、唸りっ放しの醍醐は、暑さで頭の蕩けたやり取りを交わし。

「私が、どうかしたのかしら?」

そこへ、醍醐の予想通り、マリアが戻って来た。

「どう? 課題は終わりそうかしら?」

監視役のご登場に、噂をすればと、ノルマを終えられていない三人は身を固くし。

「……全部埋まってはいないけれど、予想よりはいいわ。皆、努力はしたようね。それに免じて、今日はこれでOKにしましょう。……いいわよ、帰っても」

一人一人のプリントの埋まり具合を眺めてマリアは、軽く頷いた。

「やったー! やっとこの暑さから解放される!」

「あ、そうそう、蓬莱寺君。犬神先生がお呼びよ。生物の補習の問題集を取りに、職員室まで来いって」

「………………げー……」

彼女よりの解放の宣言に、京一は諸手を挙げて喜んだが、続いた言い渡しに再び、机の上に沈む。

「それじゃ、又明日」

「へーーい……。──っとに、選りに選って、犬神かよ……。あの野郎、どうして俺ばっかり目の敵にしやがるかな。……龍麻ー、職員室付き合ってくれーー……。したら、ラーメン喰いに行こうぜ。冷やし中華でもいいー……」

「いいよ。あ、でも戸締まり……」

「俺がやっておこう。校門の所で待ってるから、その馬鹿を頼む」

「うん、有り難う、醍醐。じゃ、一寸行って来る」

「悪りぃな、タイショー。速攻で、犬神の魔の手から逃げてくっから」

今直ぐ校内から飛び出してしまいたいのに、未だ解放されないのかと彼は嘆き、龍麻はそんな彼に付き合うことにし、醍醐は後始末を引き受け。

彼等は一旦、別れた。

──これと言った理由があるのではなくて、生理的に好きになれない、天敵と言える犬神の待つ職員室への京一の足取りは重く。

その足取りに合わせながら、犬神先生のこと、別に嫌いじゃないんだけど、京一の気持ちが判らないでもないんだよなあ、と龍麻はひとちる。

……余り勤勉ではなさそうだが、客観的に見て、犬神杜人に対する龍麻の評価は、悪い教師ではない、というそれだ。良い教師、とも言い難いけれど。

但、京一が彼を毛嫌いする気持ちが、薄らとだけ龍麻には判る。

犬神は、例えて言うなら、影の塊のような男なのだ。

龍麻には、そう例える以外に術のない、不可思議な氣の持ち主。

影の塊、と言っても、決して悪い意味ではなく、月光を掻き集めたような『影でない影』なのだけれど、真夏の太陽その物のような京一の氣とは、酷く折り合いが悪いのだろう。

そしてそれは、生理的嫌悪に繋がるのだろう、と言うのが、龍麻には何となく。

それに、龍麻に対しても犬神は何かにつけて、釘を刺して来ているとしか思えぬ、が、謎に満ちたことばかりを言うので、変な先生だ、と思うことを止められない彼も又、京一同様、余り犬神には近付きたいと思えなかったから。

しかし現実問題、学生が教師に勝てる訳もなく。

「失礼します」

「シツレイシマス……」

彼等は職員室に踏み込んだ。

待ち構えていたのは、当然……──

「……本当にお前からは、やる気が感じられないな、蓬莱寺。緋勇、お前も何やってる。お前等、そんなに学校が好きなのか?」

「好きとか嫌いとか、そういうのとは、一寸……」

「…………まあ、いい。ほら、問題集だ、持ち帰れ。予習としけよ。それが埋められれば補習は良しにしてやる。──……夏休みだからとて、余り浮かれるな。足を掬われるぞ」

放り投げるように京一へ問題集を渡して来た犬神に、チクリチクリとやられて二人は渋い顔になり、早々、職員室より逃げ出す。

「……ホントに、嫌味ったらしい奴だ……」

「まあいいじゃん。問題集やっつければ解放されるんだしさ」

「まあなー……」

そうして、ほってらほってら、醍醐の待つ校門へ彼等は向かった。

本当に芸がないと、彼等自身も思ってはいるが、ラーメン屋へ寄り道をしようと、集合し、王華へ向かい始めれば、そこへ、天野絵莉がやって来た。

頼み事がある、という彼女の求めに応じ、同行を受け入れ、奢って貰えることになった昼食を、行く予定だった王華で摂りながら三人は、現在江戸川区で起きている、若い女性ばかりを狙った連続猟奇殺人事件の話を聞かされた。

被害者は皆、カマイタチのような鋭い何かで斬られた痕を残す、首なし死体として発見されている事件。

……そんな猟奇的な話、何も昼飯食べながらしなくとも……、と思わず思い、龍麻は麺の喉越しを悪くしたが、絵莉はこの手の話に慣れっこなのか、顔色一つ変えずに話を続け、余りにも不用意且つ不自然に発見される件の事件の犠牲者の死体、首だけを綺麗に切り落としている殺害方法のおかしさ、それらより、儀式的な何かを感じる、と言い出した彼女は、龍麻達から聞き及んだ港区の事件──鬼道衆が『鬼道門』も開こうとしていたあの事件と、江戸川の事件は、何か関連があるのかも知れない、もしも『鬼道門』が、この世に複数存在しているとするなら、と仮説を語って、彼等に江戸川区へ同行して欲しいと言った。

実際、『鬼道門』と思われるそれが開いたと思しき記録は世界中にも幾つかある、とも彼女は教えてくれたので、そういうことならと、彼等は江戸川行きを了承し、部活と生徒会の用事でもう直ぐ学校に登校して来る筈の小蒔と葵も捕まえて、と、一旦学校に戻ろうと店を出。

出た処で、怪しい外人風の少年──通りすがりに葵を見初め、二人を追い掛けて来た少年と、少年から何とか逃れようとしている少女達に彼等は出会した。

そんな葵と小蒔を龍麻達が庇っても、アラン蔵人、と名乗った、メキシコ人と日本人のハーフである少年は、理想の女性、マイスイートハニー! と葵に迫り、一同の名前を強引に聞き出して、「葵ヲ、僕ニ、下サーイ!」と始め、これから江戸川まで行かなくてはならないから何処かへ行け、と追い払おうとしても、江戸川は自分のホームだ、あそこは危ない、悪魔の所業が行われている、近付いてはいけない、それでもと言うなら僕も行く! と引き下がらなかったので。

どうにも、何かを知っている様子の彼をも伴うことに決め。

その日、昼下がり。

彼等は江戸川区を訪れた。