何を言われたのでもなく、何をされたのでもないが。
天童に誘われるように等々力不動尊の御堂内へと足踏み入れた葵は、薄く笑むだけの天童と対峙した。
「…………目醒めたか、菩薩眼の娘」
随分と長い間、じっと彼女を見詰めた彼は、何処までも薄く笑みながら、ぽつり言う。
「私は…………」
しかし、葵には、それに告げる言葉がなかった。
菩薩眼の娘、と言われても、己がそうであるとの自覚など、彼女には持てなかったから。
……でも。
「………………貴方は、『菩薩眼の娘』が欲しいと言うの?」
「……そうだ」
「何故?」
「幕末より続く、我が一族の悲願、と言えば、納得するか?」
「……いいえ。でも、貴方が『菩薩眼の娘』だと言う私がここに留まれば、他の人達には手を出さないでくれますか……?」
「…………ああ。約束してやってもいい。菩薩眼の娘以外、俺にはどうでもいいからな」
「…………………………判りました……」
──『そうだ』、との自覚は、どうしても伴わなかったけれど、九角天童の求める者が『己』なら、と。
葵は、自分がここに残る代わりに、仲間達には手を出すな、と彼に求めた。
……鬼道に手を染め、数多の者の運命を変え、数多の者の命を奪って来た男が、交わした約束を果たすかどうかは疑わしいと、葵とて思わないではなかったが、一縷の望みがあるならと、そう思った。
それに。
何故か彼女には、天童を心から憎むことが出来なかったから。
約束を、この人は守ってくれるんじゃないかしらと、信じてみたくあった。
…………全ては、もう、本当のことなど誰も知る由のない、遠い幕末に始まったことだ。
そう、本当のことなんて、今では誰にも解らない。でも。
何時か龍麻が語っていた想像の通り、天童の祖先──否、ひょっとしたら前世だったかも知れない『昔の彼』が、頑とも、一途とも言える想いの果て、鬼道に手を染め、百五十年以上の月日が流れた今も、その想いだけが亡霊のように生き続けてしまっているなら、との思いを、葵は捨てられなかった。
百五十年以上の昔から、自分も、仲間達も、この男も、『亡霊のような何か』に振り回され続けているとするならば、この彼とて、被害者の一人だ、と。
本当のことなんて、判りようがないけれど。
等々力渓谷へ向かう途中、仲間達と連絡を付け、タイムラグは生まれるものの、彼等は必ず駆け付けてくれるからと、それも心の支えの一つにし、龍麻達は渓谷の一角にある、不動尊前に立った。
「ここの奥にある御堂が、九角家の屋敷跡に当たるらしいわ」
先頭に立って渓谷を進んでいた絵莉は、振り返ることなく言って、尚も先に進もうとする。
「……あのよ、絵莉ちゃん」
「天野さん。ここまで案内して頂いて、申し訳ないんですが」
が、京一と醍醐が、同時に彼女を引き止め。
「有り難うございました、天野さん。でも、御免なさい」
軽く頭を下げながら、暗にここから去ってくれと龍麻は言った。
「……………………そう……そうね。きっと、その方がいいのよね……。私達大人には何にも出来なくって、貴方達に戦わせてばかりなのに……」
「……悪りぃな、絵莉ちゃん」
「いいのよ、気にしないで。…………でも、いい? ちゃんと無事に帰って来るのよ?」
故に、心底心苦しい顔付きになったものの、彼女は無理矢理明るく笑って、踵を返し、去って行った。
「何で、天野サン帰しちゃったの?」
その背を見送り、小蒔は首を傾げる。
「桜井…………」
「……お前なー、小蒔。お前だって、武道やってんだろーが。判んねーのかよ。俺達がここに来てからずっと、あの御堂の方から物凄ぇ殺気が飛んで来てんだよ」
成り行きが飲み込めず、きょとんとした彼女へ醍醐はガクリと肩を落とし、京一は呆れたように空を仰いで。
「…………何だよ、二人共っ。ボクはそんなの一々気にしないだけだもんっ」
「それが、桜井さんのいい所でもあるよね」
プッと、頬を膨らませて拗ねた小蒔を、苦笑を浮かべながらも龍麻が宥めた。
「そうだよ! 緋勇クンの言う通り、ボクはおおらかなんだよっ」
「……あー、そうかい。おおらかと鈍いは、紙一重なんだろうよ。──醍醐、お前が面倒見てやれよな」
「言われなくとも。…………さあ、行くか」
絵莉の気配が完全にしなくなった頃より、俄に掻き曇り始めた空へちらりと目を走らせつつ、常と変わらぬ調子の小蒔を庇うようにしながら醍醐は進み始める。
「やっと、親玉のご登場だね」
「……だな。とっとと片付けて、美里連れて帰んぞ、龍麻」
すっと、暗雲の下の御堂を見詰めた龍麻と、乱暴に竹刀袋を担ぎ直した京一は、一歩先行く二人の後に続きながら。
これで、きっと全ては終わる……、と。
自らに言い聞かせるように、それぞれ呟いた。
御堂へと続く階段を昇った先には、そう広くはない境内があった。
けれど、広いとは言えないその境内には、鬼面の者達が数多、得物を構えて待ち構えていた為。
堂への道程は、途方もなく遠いように彼等には思えた。
しかし、やるしかないことも判っていたから、一人、又一人と、異形のモノを彼等は倒し、そうしている間に駆け付けてくれた仲間達と共に、行く手を阻む全てを退け、敵の消えた境内を、奥へと進もうとした。
………………が。
それでも未だ、御堂内への道は開かれなかった。
敵の姿全てが消えた筈のそこに、紺色の、裾の長い学生服を纏った男が、龍麻達がかつて討ち滅ぼした筈の鬼道衆五人を従え、立ちはだかった。