病院独特の、消毒の匂いが微かに漂う病室で、その夜、葵は夢を見ていた。

真っ暗闇の何処より、己へとひたすら注がれる、『目醒めよ、菩薩眼の娘』の声響く中。

──嫌だ、と両手で耳を塞げば、闇の向こう側より、別の声が聞こえ出した。

又、戦になる。

……聞こえ出した別の声は、そう言った。

ああ、避けられんだろう。

……戦に、と言った別の声に、又、別の声が言った。

だからとて、九角の要求なぞ、飲む必要はありませぬ、姫様!

……三人目の別の声は、葵に向かって言葉を放った。

──姫様? 姫様……って?

何を言われているのかと、塞いでも聞こえる声達の方へ視線を流せば、そこに、闇の中浮かび上がる、己そっくりな顔をした、時代劇に出て来るような出で立ちの女性が座っていた。

………………えっ? と、自分そっくりの姫君の姿を見詰めた視界のその先に、葵は今度は、伊達な着物を纏った若い剣士の姿を見た。

楽し気な薄笑いを浮かべている剣士の面は京一によく似ていて、京一に似た剣士が、「相手は人間じゃないらしいぜ?」と語り掛けた、何時しか浮かび上がった剣士の傍らの僧侶は醍醐によく似ていて、醍醐のような僧侶は、彼と剣士の前に急に浮かび上がった一人の男へと、「……そうなのか?」と声を掛けた。

剣士と僧侶が見遣る男は、葵の方へ背中を向けていたから、その面立ちを彼女は知れなかったが、男を、剣士は確かに、「緋勇……」と呼んだ。

そうして、緋勇と呼ばれた彼の後ろには、己が親友、小蒔にとてもよく似た女がひょっこり顔を覗かせた。

……それからも、浮かび上がる光景は続いて行ったけれど、突如霞み掛かったようになってしまった為、それ以上を見ることが出来ず、辛うじて、全てが霞みに包まれる寸前、総髪を結い上げた侍らしき男が姫へと手を伸ばすのが判り、咄嗟に葵は、「誰?」と呼び掛けた。

すれば。

「……九角」

と、呼び掛けに答えは返った。

『目醒めよ、菩薩眼の娘──

再びの、その声と共に。

闇が消え、葵が瞼を抉じ開ければ、もう朝だった。

窓から射し込む朝日を受けながら、夢を忘れられない彼女は、どうしようと逡巡する。

が、病室に備え付けの寝間着を着替える間もなく、夕べは夜勤も勤めたらしい舞子が朝食を運んで来てくれて、あれよという間に、登校前の龍麻達が見舞いにやって来たので、曖昧に笑みながら、平静を心掛けて彼等に接したけれど。

……夢はどうしても、彼女の傍らより消えなかった。

目醒めよ、菩薩眼の娘、と呼ぶ、九角と名乗った声も。

──僅かの時間だけ話し、学校へ向かった龍麻達が去って、やがて。

躊躇いを捨てた彼女は、『さようなら』の置き手紙のみを残し、制服に着替え、誰にも悟られぬように桜ヶ丘を抜け出した。

何処に向かえば良いのか見当も付かなかったが、何かに導かれるように、電車に乗った。

彷徨いながら、幾度か電車を乗り継いで、気が付けば。

世田谷区等々力渓谷の、等々力不動尊前に彼女は立っていた。

東京二十三区内の一角とは到底思えぬ、緑豊かなその場所の奥には、御堂が見えた。

立ち尽くしたまま、ぼんやりと御堂を見詰めれば、独りでに扉は開き、裾の長い紺の学生服を着込んだ少年が、滑るように出て来た。

……夢で見た、総髪を結い上げた侍に、彼は瓜二つだった。

葵の失踪を知らされた龍麻達は、マリィと共に桜ヶ丘へ戻ろうと、校門前より踵を返した。

走り出した途端マリアと鉢合わせ、もう直ぐホームルームが始まるのに何処へ行くのかと問い詰められ、下手な言い訳をするよりはと、入院先の病院から葵が消えてしまったことだけを告げたら、集団エスケープを彼女は許してくれた。

「夕べも今朝も、変わった様子はなかったと思ったんだがな……」

「そうだな……。……大体、何で急に、あんな紙切れ一枚残して消えちまったんだ、美里はっ」

「……何か、遭ったのかな、美里さん…………」

「…………葵、ここの処少し、悩んでるっぽかったんだよね。自分の『力』は何の為にあるのかとか、何が出来るのかとか、『力』があるのに、自分には誰も救えないとか、そんなこと言ってたっけ…………」

マリィを背負いながら走る醍醐が、何故? と言い出した為、駆けながらも彼等は言い合い、小蒔が、そう言えば……、と眉を顰めながら数日前の親友の様子を思い出し。

「……チッ。どいつもこいつも、悩んでも仕方のねぇことばっか気に病みやがって……っ」

肩を並べて走る友の誰にも聞こえぬように、ボソっと小さく京一は吐き捨てた。

「…………京一は、怖くない? 考えたこと、ない?」

低く小さかったそれを、龍麻だけは聞き留め、やはり低く小さく、問う。

「俺、は………………」

けれど答えは返らず、視線は不自然に逸らされた。

「皆で一緒に頑張れば、大丈夫だよ、きっと。……何も彼も、きっと」

そんな態度に、吐き捨てられた彼の言葉は、己自身への物だったのかも知れないと、龍麻は一瞬だけ目を閉じて、上手い科白は出ないけど、と励ましを言ってみた。

……傍らの彼よりの応えはなく。

代わりに伸びて来た左手で、強く手首を掴まれた。

桜ヶ丘への道をひた走る途中、真神学園へ向かおうとしていた絵莉と彼等は遭遇した。

話があるという彼女に、葵のことを説明し、そんな暇は無いと断れば、だと言うなら尚更自分の話を聞いて、一緒に行ってくれと彼女は勢い込んだので、付いて来ていた杏子に桜ヶ丘の方を頼み込み、絵莉と共に、彼等は電車に飛び乗った。

──絵莉の話は、実在した九角家に関することだった。

九角家は、江戸幕府開闢以前より徳川家に仕えて来た名家だったが、幕末の頃、謀反を企てた咎で御家断絶と相成って、それを切っ掛けに、幕府と一戦構える為、当時の当主が鬼道を用い、地の底から異形の鬼達を呼び出したと言われており。

その九角家の末裔が、今もこの東京にいることが判った。

名を九角天童という、龍麻達と同じ高校三年生で、が、如何なる手段を使ったのか、戸籍上、九角天童なる人物は存在しておらず、通学している筈の世田谷区・龍州の宮高校にも正式な籍はないが、実在していることだけは確かで、かつて、九角家の屋敷があったと言い伝えられている、世田谷の等々力渓谷に、かの者は、と。

だから、と。

……揺れる電車の中で語られた絵莉の話を聞いて、龍麻達は彼女と共に、その地──等々力渓谷へと向かった。