眠りとは何処か違う、唯落ちているだけの闇の中より目覚めて、思い通りに動かぬ体にどうにかこうにか言うことを聞かせ、辺りを見回してやっと、ここは桜ヶ丘の病室で、自分は病室のベッドの上に寝ていると気付き。

京一は、安堵と情けなさの入り交じった溜息を零した。

──龍麻達と別れて亜里沙の家へ行って、救急箱を取って来た彼女とエルを探して歩き回って、もう直ぐ八時だから、最後にそこだけ覗いてから公園に戻ろうと、立ち入ってみた廃ビルで、京一は、八剣右近と名乗る男に襲われた。

八剣は、自分は拳武館の者だ、と言い、『仕事』の依頼を受けたから、京一を殺す、と言い。

すらりと抜き去った刀で斬り付けて来た。

……亜里沙を庇いながら八剣と対峙し、己も又刀を抜いた時、京一は、勝てる、と思っていた。

否、きっぱり勝負を付ける処までは持ち込めないかも知れないが、この男の相手を一人でしても、窮地に陥る処までは行かないだろうと考えていた。

だが、斬り合いを始めて直ぐ、八剣の氣が全く読めぬことに気付いて、彼は驚愕した。

…………『存在そのもの』の氣は読めた。充分に。

太刀筋も、解らなくはなかった。

なのに、八剣が刀に乗せて放つ氣だけが、どうしても判らなかった。

何処からどうやって放たれているのかも、その正体も。

故に、彼はそれに翻弄された。

諦めるなどという言葉は彼の辞書にはないから、出来得る限りの抗いはしたが、それが、精一杯だった。

「…………鬼剄を見たのは初めてかい? ボーヤ?」

嘲るように嗤いながら言う八剣より、ヒトを殺すことより彼が覚えるらしいくらい愉悦を感じ、憤りを覚えながらも。

亜里沙を庇う処か、逃げろ、と彼女に向かって叫ぶことしか、京一には。

「……そんな女のことなんか、気に掛けてる場合か? ボーヤ。他人のことより、てめぇのことを何とかしろや。……ボーヤは、『俺と同じ側』の人間に感じるぜ? 俺には。なのに、何だその様ぁ。仕事はやり易くっていいが、俺は楽しめねえ。……おら。見せてみろよ、ボーヤの剣技をよ。かなりの使い手なんだろ? ボーヤ」

幾度か己の太刀を受け、胸許より血を滴らせながらもしっかりと地に踏ん張り、刀を構え続け、亜里沙へ逃げろと怒鳴った京一へ、八剣は唾棄するように言い捨てる。

「…………うるせぇよ。それこそ、女なんざ放っときゃいいだろ。てめぇが用があるのは、この俺だろう? ……言われなくったって、相手くらい幾らだってしてやらぁっ!」

選りに選って、ヒトを殺すことに冥い愉悦を覚える八剣と同人種、と当て擦られて京一は、カッと目許に怒りを乗せ、柄を握り返して斬り掛かった。

が、結果は変わらず。

あの、正体も気配も読めぬ謎の氣、それを悟って見切らぬ限り、己に勝機は見えないと、彼は初めて、背中に嫌な汗を掻いた。

「フン……。……ま、ボーヤ相手じゃ、俺のお楽しみもこんなもんか……。思いの外、楽しませて貰えた方だ」

腰を軽く落とし、正眼の構えを続ける京一の胸許より流れる血が、何時まで経っても止まりそうにないことをほくそ笑んで、八剣は再度刀を振り始めた。

幾度となく白刃を返し、引き、押し、として。

声もなく、どさりとその場に倒れ込んだ京一の手より刀が零れるを待ち、漸く彼は手を止める。

「……トドメを刺すまでもねえか。このまま、放っといても直ぐに御陀仏だろ」

そうして、クスリ、愉快そうに鼻で笑うと、びっしりと刃にこびり付いた血を、一振りで払い落としてその場より立ち去った。

京一の制服の内ポケット──丁度、心臓の上に当たる辺りに、PHSが入れられていたことも知らず。

意気揚々と去って行く八剣の足音を聞きながら、意識を失った京一が目覚めた時、辺りからはもう、誰の気配もしなくなっていた。

本当に自分は生きているのか、ひょっとしてこれは夢なんじゃないのかと疑いながら、いまだ、じくじくと血を流し続ける体の痛みに歯を食い縛って耐え、蹌踉よろめきながらも立ち上がった彼は、藤咲は無事に逃げ遂せたんだろうか、ひーちゃん達はどうしたろう、とぼんやり考えつつ、傍らに転がっていた刀へ手を伸ばし、やけに重たく感じるそれを拾い上げ、何度かしくじりながらも鞘へ納め、竹刀袋へ仕舞い、刀を杖に、酷くゆっくり、それこそ這い出た方が早い程緩慢に、廃ビルより出た。

杖代わりの刀に縋り、ビルや家々の壁や塀に縋り、飛びそうになる意識を、数多付けられた胸の傷に爪を立てることで繋ぎ止め、何とか、廃ビル前の路地より一本太い路地へと出ると、街灯に浮かび上がった、傷だらけで血塗れで、一応制服としての原型は留めている、が、ボロ切れと化し掛けた短ランを纏う己の姿を、唐突に、意味もなく込み上げて来た笑いに心を任せながら眺め、一頻り笑って。

不審者以外の何者でもない今の己を少しでも取り繕いつつ、自らの血に濡れた右手を上げて、通りすがったタクシーを止めた。

……今は唯、桜ヶ丘へ行こう。

…………それ以外、その時の彼には思い至れなかった。

「なっさけねえなあ、俺も…………」

──あの日、龍麻達と別れてよりの経緯を、病室のベッドの上に横たわりながら振り返って。

又、京一は不意に込み上げて来た笑いに身を任せた。

……笑い飛ばしてしまいたかった、自分を。

肩を、全身を揺らして彼が笑うから、彼と繋がったままの点滴のチューブも揺れて、カラカラと、点滴の袋を下げる支柱が不協和音を立てた。

彼の、乾いた笑いに合わせて、それは、何時までも鳴り続けて。

…………やがて。

「お止め。抜けちまうよ」

何時しか病室へとやって来たたか子の静かな声によって、それは漸く止められた。