「あー……。たか子せんせー」

「……あの夜と言い、今日と言い。お前から、『たか子せんせー』なんて呼ばれるのは、何年振りかね」

「さあな……」

巨体を揺すりつつやって来て、ドカリと京一の枕元のパイプ椅子に腰下ろした女医は、フン、と笑いながら彼を見下ろし、指摘されたことに、はた、と京一はそっぽを向いた。

「それにしても、お前ともあろう者が、随分と手酷くやられたもんだ。只の刀傷とは少し違ったから、そこら辺のチンピラが相手じゃなかったんだろうけどね。……もう、大事ないが。当分、動くんじゃないよ」

「救って貰っといて、悪りぃとは思うが。そいつぁ聞けねえな。……処で、今日は何日だ? あれから、何日経ったんだ?」

「あの日から数えて、二日半、経った。今夜が三晩目。その間、ずっとお前は意識不明だったんだ。医者の言うことは、黙ってお聞き」

「……聞けねえっつってんだろ。それよりも、約束の方は守ってくれたんだろうな? 誰にも知られてねえよな、俺がここにいるって」

「…………何を考えてるんだか知らないが……。あんまりにもクドクド言うもんだから、言われた通りにしといてやったさね。高見沢にも、この病室には近付くなと言ってある。訳ありの患者だからと。……緋勇にも、電話で何度か、京一が来なかったかと訊かれたがね。誤摩化しといた。…………仲間や、お前が大切にしてるんだろう友にまで黙って、何をやろうとしてる? 京一」

「大したこっちゃねえよ……。そんな顔で問い詰められる程、ご大層なこと仕出かそうって訳じゃねえ……」

じっと、己を見詰めて来るたか子より視線を逸らしたまま、白い天井を眺めつつ京一は様々彼女に尋ね、あれから二日半もの時が経ったと知って、躊躇いもなく、鬱陶しいと思っていた点滴の管を引き抜いた。

「そういう、聞き分けのないことばかりするんなら、もう二度と、お前を診てはやらないよ」

「上等。こっちから願い下げだ。二度と、こんな目に遭うつもりもねえしな」

無理矢理に針を引き抜かれた所為で、ぽたりぽたりと血を伝わせ始めた京一の左腕を眺めながら、たか子は呆れを見せたけれど、知るか、と京一はさっさとベッドより抜け出、備え付けのロッカーを開け放ち、そこに、真新しい真神の制服──しかもご丁寧に、上着の丈は短ランの制服一揃えが掛かっているのを見、酷く嫌そうに、パイプ椅子に座ったまま動かぬたか子を振り返ったが、何も言葉にはせず。

入院服よりそれへと着替え、同じく、ロッカーに押し篭められていた竹刀袋や、他の私物を取り上げると、病室の窓を開け放って、院長の目の前より堂々と、『入院患者』は『脱走』して行った。

「……未だ未だ、ガキだねえ……。自分でそれと知らず、意固地になってる辺り、ガキさね。……傷が開いて、途中で引っ繰り返らなきゃいいが」

京一が『脱走』を果たした窓を、ぴしゃりと閉め、たか子はやれやれと、首を振った。

道を駆けながら、ちらり、通りすがりの公園の時計へ目を走らせ、京一は、今が午後十時を廻ったばかりであることを知った。

十時か……、と思いながら、一瞬、本当に一瞬、彼は、龍麻にだけは、せめて己の無事くらいは伝えようかと、時刻を知ったのと同じ公園の片隅にあった電話ボックスへと足先を向け掛けたが。

…………今の己が、最も無事を報せたいのが龍麻なら、最も近付いてはならないのも龍麻だ、と。

苦笑を浮かべて彼は、電話ボックスを視界の中より追い出した。

そうして又ひたすらに走り、真神学園近くの、不夜城と言われる新宿でも滅多に人の来ない、況してやこんな時間には、生き物の影も形もない程に寂れた、小さな小さな神社の境内へ入って、上着を脱ぎ捨てると、竹刀袋より刀を取り出し、鞘毎、腰撓めに構えた。

ジリ……と、両足を肩幅よりも少しだけ大きく開き、居合い抜きの要領で鞘より刀を抜き去ろうとして。

……ゆっくり、ゆっくり、一本ずつ、握り締めた柄より指を引き剥がし、溜息だけを零して、刀を抱き抱えたままその場に踞った。

「ホント、情けねえ…………」

ガリガリと激しく髪を掻き毟って、幾度も幾度も鍔に額をぶつけてはみたが、どうしても、立ち上がる力も意思も湧き上がらず、心底悔し気に彼は唇を噛み締める。

──………………多分、今の己はそうなんだろうと、桜ヶ丘のベッドの上で目覚めた時に覚えた予感通り、彼は、刀が抜けなくなっていた。

刀を鞘より抜き去ることも、構えることも。

戦うことも、大事な大事な奴を護ることも。

今の彼には、到底出来そうもなかった。

出来るのは、唯。

こうして、抜き去ることも出来ない刀を抱えて一人踞り、悔しさに唇を噛むことだけだった。