……もしかしたら何時の日か、そんなことになってしまうかも知れない、と。
京一が、そんな予感めいた想いを、薄ら……本当に本当に薄ら覚えたのは、未だ季節は春で、何とか桜が花を留めていた頃だった。
新宿中央公園で、皆で花見をしたあの時。
…………彼にとって刀は、人を斬る為だけの道具ではなかった。
剣技を極め、剣の道のみに生き、誰かを護る為にその術を己が振るうのだとしても、彼にとっては、決して、刀は『人斬り包丁』ではなかった。
誰が握っても、『人斬り包丁』に成り得てしまう物であるからこそ、尚更。
刀は『刀』でしかないから、尚更。
だから、妖刀に飲み込まれ、目の焦点すらおかしくし、人を斬り付け、深紅の血に塗れた刀を持ったあの男を見た時、血の滴る刀を見た時、許せない、と彼は思った。
刀を、剣を、唯、人を斬る為だけに使う、そんなことは許せないし、刀はそんなことの為だけにあるんじゃない、と。
何かを護る為に何かを斬ることと、唯、人を斬ることとは違う、と。
けれど、戦いが終わり、あの刀をこのままにしておく訳には……、と言った仲間の言葉を受けて、妖刀と名高い『村正』の柄に触れた時。
『……お前とて』
………………と。
そんな囁きが彼の脳裏には響いた。
……お前とて。
所詮お前とて、人を斬りたい、斬ってみたいと、そう思っているのだろうに。
剣技は、人を斬る為の技だ。刀とて、人を斬る為の物だ。剣の道を究めるということは、人を斬り、斬り続ける為の術のみを昇華して行くことだ。
…………お前とて。所詮お前とて、その心の何処かでひっそり、人を斬ってみたいと、己の剣をそうして振るってみたいと思っているのだろう?
──………………響いた声は、そう、京一に語り掛けた。
無理矢理、村正の柄から手を引き剥がしても、その声は暫く彼の中より消えなかった。
そんなことない、俺はそんなこと一度だって思ったことない、俺の剣は、そんなことの為にあるんじゃないと、高が幻聴に強く訴えなければならない程に。
……でもその時は、『この刀は良くない』、そんな考えで、彼は幻聴を退けることが出来た。
妖刀と人々に言わしめて来た村正が、人の血を吸い続けるべく仕掛けて来ただけのことだと。
妖刀にとっては、自分を振るう者が誰だろうと構わない、自分だろうが他の誰かだろうが、偽りの囁きに屈して、人を斬る誘惑に駆られる者が得られれば、それでいいのだから、と。
決して、響いた幻聴が言ったように、自分が本当に人を斬りたいと思っているなどと、そんなこと、ある筈が無い、と。
…………けれど、そんな体験をしてしまった、との記憶は彼の中よりどうしても消え去らず、龍麻も自分達も、知らず知らずの内に、異形のモノ達との戦いに関わって行く運命を辿っているとの自覚を覚えても、異形との戦いが、身辺で頻繁に起こり始めても、彼は刀を持とうとしなかった。
極めれば、木刀だって。氣の技で、敵を倒すことは叶うのだし、と。
が、敵の正体が明らかになりつつあった初秋、自分達の周囲を取り巻いている戦いが如何なる意味を持っているのか、知り合った人々より悟らされ、気付いた時には何よりも大切な友となっていた龍麻が、そんな戦いだと悟らされたそれを、誰よりも背負って行かなくてはならないのなら。
…………きっと、護る為に巡り逢ったのだろう彼。誰よりも大切な彼。
頓に春が覚えさせる苛立ちを、呆気無く吹き飛ばしてしまった、心の何処かで求めていた『運命の出逢い』の相手だったのだろう彼の為に、彼と共に戦い、彼と背中を護り合う為に。
今の己では、未だどうしても埋められない部分を、道具に頼ってでも、そう思って京一は、漸く、木刀でなく刀を取った。
……何時如何なる時でも、振るい方によっては『人斬り包丁』に成り得るそれを取っても、別段、彼の心に何の変化もなかった。
心の何処かで彼が恐れていた異変など、起こり得る筈も無かった。
俺は一体、何にビビってやがったと、京一自身、自分で自分に暫くの間は呆れた。
………………なのに、鬼道衆達や天童との戦いが終わって。
終わった、と思った筈の戦いは未だ続き。
それより時が流れて暫し、異形が引き起こす事件の解決の為に訪れた、池袋で。
憑依師によって放たれた憑き物に、苦しめられたあの時。
京一は又、幻聴を聞いた。
訪れた池袋で出会した、憑き物に憑かれた者達も、彼の目の前で同じように苦しんでいた醍醐や小蒔も、皆、人を喰らいたい、との衝動を覚えさせられている風だったから、己も又そうなってしまうのだろうと彼は考えていたのに、ヒトの中に眠る、本性のような何かを引き摺り出すという、憑依師が使役する『獣』は、彼には、彼だけには、『ヒトを喰らえ』とは囁かなかった。
『人を喰らいたい』との衝動を覚えさせなかった。
──お前のしたいことも、お前の進みたい道も、人斬りでしかないんだ。
お前は本当は、心の何処かでそれを望んでいる。思うままに剣を振るって人を斬りたいと、人斬りの術でしかない剣技で何処まで人が殺せるのか試したいと、そんな欲望が、お前の中にはあるんだ。
……だって、そうだろう?
強くなりたい、剣技を極め、剣の道のみで生きて行きたい。
……そう言えば聞こえは良いが、剣技とは何だ、剣の道とは何だ、あんなもの、人斬りの為の術で人斬りの為の道じゃないか、強くなるということは、どれだけ簡単に人を斬り殺せるかということじゃないか。
護りたいモノがあるから強くなれる? 護りたいモノの為に強くなる? ……そんなのは唯のお為ごかし、護りたいモノがあるから強くなって、護りたいモノの為に強くなって、戦って、でもその果てにあるのは結局、お前の技と刀で以て、何かを、誰かを斬り捨てるということだ。
…………蓬莱寺京一。お前は本当に、大切なモノを護りたいが為にそうしているのかい? 本当に、大切なモノを護る為に戦っているのかい?
お前が、緋勇龍麻の傍らにいる道を選んだのは、大切なモノを護る為なんかじゃなくって、強い相手を叩きのめしたいから、誰かを、何かを斬りたいから、お前の中にある、冥い欲望を満足させたいから。
………………だから、なんだろう?
お前は所詮、人斬りだ。
ほら、斬ってしまえよ、目の前の男を。お前が、最も大切だと思う友を。
他の仲間も。
最も大切だと思うモノを上手く斬り捨てられれば、もっともっと、他の誰だって、上手に斬り捨てられる。
思う様、お前の本当の望み通り、どれだけ上手くヒトを斬れるか、それだけで生きて行ける。
最も大切な友……なんて想いだって、どうせ偽りなんだから。
何かを、誰かを斬り捨てたいお前は、強い相手と戦いたくて、斬りたくて。強い緋勇龍麻こそ、お前は斬ってみたいんじゃないのかい?
────彼に取り憑いた『獣』は。
酷く強い心配を浮かべて覗き込んで来る龍麻を前にした京一へ。
京一へ、だけ。
『蜜よりも甘い』言葉を、ひたすらに囁き続けた。