取り憑かれた『獣』に囁かれていた最中も、それを劉に祓って貰っても、池袋での戦いが終わっても。
常通りに振る舞いながら京一は、実の処、囁かれたそれのことばかりを考えていた。
嘘だとか、取り憑いて操る為にいい加減なことを言ったんだとか、俺はそんなことないし、そんなこと考えたことも一度もないとか、彼は何度も何度も、心の中でそれを繰り返したけれど、否定する端から囁きは確かに甦り。
『獣』が本当に、ヒトの持つ本性のような『何か』を抉り出すと言うなら、俺の中に眠る本性とやらは……、と、彼は思わずにいられなかった。
池袋の事件より数日が過ぎても、その考えは頭から離れず、とうとう、夢にまで見てしまった。
『囁き』に翻弄される夢。
『囁き』が実体を持つ鬼となって自分を襲って来る夢。
己を操り、龍麻を斬り捨てさせようと仕掛けて来る鬼へ、そんなことは絶対にさせないと、抜き去った刀で挑む夢。
……それを、選りに選って、龍麻の家に泊まり込んでいる時に、彼は。
………………限界かも知れない、そう思った。
このままでは自分は本当に、あの『囁き』に飲まれ、持ち合せている筈も無い冥い欲望に身を任せてしまう、と。
かと言って、何が出来る訳でもないが、少なくとも本腰を入れて自分自身と向き合わなければ、とも彼は考えた。
そして、そんな時。そんな夢を見てしまった日。
こんな自分が龍麻の傍にいてもいいのだろうかと、微かに思い始めた日。
京一は、八剣に襲われた。
鬼剄という名が付いているらしい、『嫌な気配』の技を使う、その技の氣を決して悟らせなかった相手に襲われ、戦って、完膚なきまでに負けた。
剣で己に勝てる者など、早々……、と思い上がれる程強くなっていた京一にとって、確かに八剣に打ち負かされたことはショックな出来事だったけれど、負けたことそのものに、余り拘るつもりはなかった。
彼とて、『此処』に辿り着くまでに、嫌という程負けて来たのだから、そんなことは今更だった。
八剣の技を見切れなかった自分、鬼剄の存在さえ知らなかった自分、そんな己が未熟だっただけのことだ、唯単に。
だから、負けた。それだけ。京一にとっては、それだけ。
彼を本当に打ちのめしたのは、負けたことそのものではなく、ヒトを殺すことに愉悦を覚える、唾棄すべき者である筈の八剣に、お前は、俺と同じ側の人間、と言われたことだった。
あの日の『囁き』は、嘘でも何でもなくて、自分の中に眠る本性は、殺すことに愉悦を覚える人斬りなのだと、明らかにされてしまったようで。
このまま、激しく流れ出る血に全てを任せ、あの世に逝ってしまいたいと、一瞬だけでも思い詰めた程、八剣の言葉は、京一にとっては衝撃だった。
……でも。
生きたい、生きなければ、自分は未だ死んではいない、助かったのだから、と、これっぽっちも上手く動かぬ体を引き摺って、桜ヶ丘へ行こう、それだけを思い、何とかタクシーを拾った。
拾ったタクシーの中で、約束の時間を五時間過ぎても戻らぬ自分をきっと心配しているだろう龍麻にだけは、無事生きていることを知らせて……、と思ったが、己の身代わりのようにPHSは壊れてしまっていたから、それは叶わず。
又手放してしまった意識を、桜ヶ丘に着いたとタクシーの運転手に引き摺り戻された時、朦朧とする頭で彼は、このままじゃ、何度でも自分は同じことを繰り返す、と咄嗟に思った。
今のままではきっと、あの『囁き』に囚われ続けて、苛まされ続けて、又、八剣や八剣のような連中に負ける、と。
だったら、暫くの間だけでも身を隠したい。誰にも何も知らせずに、ほんの少しの間だけでいいから、自分自身と向き合う時間と空間が欲しい。
……そう考えた京一は、このことを絶対に喋らぬようにたか子に頼み込んで、それは叶えられ。
漸く意識を取り戻せたと、院長の目の前から病院を脱走し、そうして。
滅多なことでは誰もやって来ない、寂れ切った神社の夜の境内で、出した結論通り、自分自身と向き合おうとした。
『囁き』を振り払う為に、『自分』に戻る為に、八剣を倒す為に。
どうなってしまったか判らない亜里沙のことも、ちゃんと頭にはあったし、早く片を付けて、龍麻達の許へ戻らなければ、との想いもきちんと彼にはあった。
…………………………けれど。
構えた刀を、鞘より抜き去ることが彼には出来なかった。
どうしても、体は言うことを聞いてくれなかった。
……怖かった。どうしようもなく。
蓬莱寺京一ともあろう者が、刀を抜くのが怖いと思った。
もしかしたら、自分はそうなってしまうんじゃないかと、抱え続けた、怯え続けた『予感』の通り。
刀を抜いたら、お前の本性だと言われた人斬りのそれが姿を現して、己を飲み込んでしまうんじゃないだろうかと。
もう二度と、引き返せなくなるんじゃないかと。
そう思えてならなくて、刀を抜くことが、京一には。
…………………………だから。
大切な彼の、仲間達の中に帰りたくても、帰れなかった。
何処に行って、どうしたらいいのか判らなかった。
行く場所が、目指すことが、進む先が、ふうっと、息で吹き消した蝋燭の火のように、彼の目の前から掻き消えてしまった。