おでん屋の親父に、そんな風な『不意打ち』を喰らわせられて、自分はやはり……、と打ちのめされていた最中、地回りのヤクザに絡まれていた少女を見掛けたこと。
少女──那雲摩紀という彼女とヤクザの間に条件反射で割って入って、入ったはいいが、戦うことも出来ず、剰え怪我を負っていた為、ヤクザ如きに遅れを取ったこと。
そんな彼を連れ帰ってくれた摩紀の家──ヤクザに借金を作って蒸発してしまった、彼女の父親が営んでいた小料理屋で一晩厄介になり、翌日、摩紀の買い出しに付き合って戻ってみれば、店はヤクザの嫌がらせを受けメチャクチャにされていて、そんな店と、警察は相手にしてくれなかったと耐えるだけの彼女と、彼女を護ろうとする、彼女の弟の明の姿を見ていたら、立ち去れなくなってしまって。
その夜、借金のカタに店の権利書を寄越せと、目を離した隙に彼女を連れ去ってしまったヤクザの許へ、一人でも姉を助けるのだと言い張った明が乗り込もうとしたのに、付き合ったこと。
………………そんな経緯を、再びの長い話の始まり、京一は語った。
「……刀が抜けなかったからかも知れない。明が、俺の小さい頃に少しだけ似てたからかも知れない。……何でなのかは、判らない。判らないけど……夢を見た。何度も、何度も。未だ、ガキだった頃の夢。俺の馬鹿師匠に教えて貰ったことの夢……」
「……お師匠さん? ああ、前に、ちらっとだけ言ってた……」
「ああ。……本当にガキの頃から、俺はこんなんだったからさ。小学校ん時の担任の女の先生が、チンピラに絡まれてるトコ見付けて、無謀にも突っ込んじまって。生きるか死ぬかの、大怪我したことあんだよ。……その時、俺を助けて、桜ヶ丘に担ぎ込んでくれたのが、馬鹿シショー。剣術が上手くなりたかったら、誰よりも強くなりたかったら、俺と一緒に来いって言われて、のこのこ後付いてった。……家の親は、あんなだから。お前がそうしたいんなら好きにしろ、学校の勉強よりも大事なことはあるって、止めもしなくて。大喧嘩して別れるまでの二年間、あの男と一緒に山ん中放浪してた。修行しながら。……そん時に教えて貰ったこと、夢で思い出したんだ」
「……良いお師匠さんだったんだ?」
彼の話はやがて、彼の周囲の誰も知らぬだろう、剣の師匠の話に辿り着いて。
それを聞きながら龍麻は、きっと、京一にとっては大切な想い出なんだろうなと、目を細めた。
「んなこたぁねえよ。最悪。何かっつーと、俺の頭、容赦無くバコバコ引っ叩くような奴で。良く言えば昔気質、悪く言えば碌でなし。……そんな奴だった。強かったけどな。本当に、強かったけど。最悪の野郎だった。俺も俺で、その内簡単に、あいつにくらい勝てるって思い上がってるようなガキだったから、お互い様って奴かもだけど。兎に角あいつは、良い師匠って柄じゃなくって……だけど結局、刀も抜けない腑抜けになってた俺に根性入れ直してくれたのは、馬鹿師匠が教えてくれたことだった。馬鹿師匠が俺にくれた、言葉だった。結局は……それに救われた……」
己が師を褒めるような口振りになった龍麻へ、そんなんじゃ、と苦笑いしつつも。
ベッドの上に胡座を掻き直して、京一は、遥か遠くを眺める眼差しになる。
「…………山ん中で、馬鹿師匠と一緒に修行してた頃。二人で、雪を見た。只の雪。何の変哲もない雪。……あの頃の俺にとっちゃ、雪なんて鬱陶しいばっかりで、積もったら修行が面倒クセぇなあとか、そんなことしか思えなかったけど。あいつは、『雪は、人の想いによく似てる』、そう、俺に言って聞かせた。白いが故に穢れ易くて、儚いが故に壊れ易くて、次から次へと降り積もっては、あっという間に消えて行く。……そこが、人の想いそのものなんだと。積もっても積もっても呆気無く消えて、白くて綺麗で儚い想いは、何時しか土に塗れるんだと。……でも、記憶は残るから。想いが消えても、その想いを抱えていた記憶だけは確かに残るから、何も彼も忘れるなって、そうも言われた。一緒に雪を見たこと、見詰め続ける風景、抱えた想い、俺の心の中にある輝き。……皆々、忘れるな、って……」
「……何だ。やっぱり、凄く良いお師匠さんじゃないか」
「だから、そんなんじゃねえって……。そんなんじゃ、ねえけど……。……あの馬鹿師匠はさ、こうも言ってたんだ。『神氣』ってものが、この世にはあるんだって。例えば、花が咲こうとする心、人が生きようとする心、心が『そうであろう』とする『心』。決して目には見えないけれど、確かにそこにあるモノ。氣とも言い換えられるモノ。それを感じて生きろ、それを感じて戦え、そうして、強くなれ、って。心の中にあるモノ、記憶の中には残るモノ、それを決して忘れないで、どんなに穢れ易くても、どんなに壊れ易くても、想いと記憶だけは土に塗れさせずに生きて、大切なモノを護る為に戦って、強くなれって。…………あいつは、さ。生意気なだけだった俺に、そんなこと、教えてくれたんだ……。一番、大切なのかも知れないこと…………」
遠い何処かを見詰める風な眼差しの向こう側に、恐らくは、『馬鹿師匠』と二人きりで眺めた、雪降り頻る光景を思い出しつつ。
薄く笑いながら、京一は言った。
「でもな。あの頃の俺は、本当に、無茶苦茶どうしようもないガキで。大きくなった今でも、あの頃みたいなクソガキで、これっぽっちも成長してなかったから、疾っくの昔に、そんな大切なこと教えて貰ってたってのに、うじうじ悩んだんだと思う。……けど、それ思い出して。何の為に、この道だけを俺が歩いて来たのか、それを振り返りながら、姉ちゃんは自分が護るから、お前は逃げろ、なんて、俺に向かって一端のこと言いやがった明のこと見てたら、呆気無く、刀が抜けた。……そこから先は、もう、本当に呆気無くて簡単だった。ヤクザ共叩きのめして、摩紀ちゃんと明助けて、あ、俺、戦えるじゃん……なんてテンポずれた衝撃受けてたら、八剣にやられた時のこと、ふっと思い出して、何となーく、あいつの氣の正体も見えて来て。で、ひーちゃん達のトコ戻ろうって、慌てて皆の行方探してさ。……後は、ひーちゃんも知ってる通り」
「……………………それで、全部? あの五日に京一がしてたこと、京一が考えてたこと、それで、全部?」
本当に照れ臭そうに薄く笑いながら、胡座を掻いた足先を抱えて居心地の悪さを誤摩化した京一の顔を、『言い訳』を聞き終えても尚、龍麻は覗き込んだ。
根拠は何処にもない、唯の勘という奴で、未だ、親友が打ち明けてくれていないことがあるような気がしたから。
とは言っても、龍麻とて別に、それを無理に聞き出そうと思った訳ではない。
辛いことは半分こにしようとか、隠し事は止めようとか、そんな子供染みた約束を京一とは交わしたけれど、寸分違えず、その約束を律儀に守って貰わずとも良かった。
あの約束は、言ってみれば『心構え』だったから。
何にも代え難い大切な友だと思った彼、自分のことを、何にも代え難い大切な友だと言ってくれた彼と、共に在り続けるスタンスの一つ、のような。
……そこに、誰よりも、何よりも大切な友である彼のことを、知れる限り知りたい、解りたい、との、我が儘のような、占有欲のような想いが微かに織り混ざっていたのは、龍麻自身にも否めないけれど。
──だから、何も彼も打ち明けて貰えたら、それはこの上無い至福と成り得るけれども。
有り得ない、と思っていたから。
京一の口から全てが語られることなど、龍麻は期待していなかったのに。
誰にだって、誰にも知られたくないことくらいある、そう考えていたのに。
「……全部じゃねえよ。……未だ、だ。未だ、沢山、沢山、お前に白状してねえことがある。本当に、本当に、沢山…………」
見詰めていた己が足先より面を上げ、真っ直ぐ龍麻の瞳を捉え、京一は、そう言った。