ふと、気が付いたら。

龍麻は、女性の背中を追い掛けるように、学園の廊下を歩いていた。

よくよく窺えば、女性の背はマリアの物だと判り、あれ? とは思ったものの。

立ち止まろうとした彼の意思に反して足は進み、彼女に促されるまま、真神学園三年C組に踏み込んだ彼は、至極当たり前のように教壇の脇に立って、己へと注目して来る同級生達に背を向け、黒板に、自らの名を書き記した。

………………どうして、自分はこんなことをしているのだろう。

──そう思うことを、彼は止められなかった。

けれど、体は言うことを聞かなかった。

どうして、と思うことを止められないのに、「転校初日なのだから、当たり前」と、自分で自分に言い聞かせる『自分』も、己の内に確かにいて。

彼は、何かを言葉にしようとした。

「今日、このクラスに転校して来た、緋勇龍麻君です。お家の都合での転校だそうなの。皆、仲良くしてあげて下さい。……それから、緋勇君は、去年の秋に、大きな事故に遭った時のショックで、声が出なくなってしまっているの。記憶の方も、未だ混乱してるそうなので、気遣ってあげてね、皆」

が、教壇の中央に立って、自身の生徒達へとマリアがした説明通り……なのだろう、恐らく。

彼は、喋ることが出来なかった。

故に、初めまして、宜しくお願いします、の挨拶の代わりに、ぺこりと頭を下げながら…………否、勝手に体が頭を下げるのを感じながら。

ここは、『俺のクラス』で、よく知っていて、──も、──も、──も、──も、俺とは……、と混乱もしつつ。

彼は、遭ったという、事故以前の記憶がないから、こんなこと……、と、自分で自分に言い聞かせ続ける『自分』の声に、仕方無く、耳を貸した。

退院する龍麻と肩を並べて、ここの門を潜ったのは、つい昨日のことなのに……、と歯噛みしながら、京一は、桜ヶ丘の正面玄関を潜った。

「高見沢! ババアいるかっ!?」

相変らずの調子で、「いらっしゃいませ〜」と出て来た舞子へ、怒鳴るように彼が叫べば、彼の剣幕と、抱き上げられている龍麻とを見比べ、何で? と首を傾げながら、彼女はたか子を呼びに行き。

やって来たたか子に連れられるまま、やはり、昨日出たばかりの病室のベッドに龍麻を寝かせてより、京一は、捲し立てるように事情を語った。

「……確かに、寝ているだけ、のようだね。だが……どうして、氣が……。時逆の門……。六道輪廻、か……。意識……いや、魂だけ、輪廻の輪から外された……?」

少々要領を得なかった彼の説明を、それでもきちんと噛み砕いて、たか子は唸る。

「何なんだよ、その、時逆の門とか、六道輪廻とかってのはっ!! 訳の判んねえことなんか、どうだっていいっ! 龍麻はどうなったんだよ。何で、寝ちまってんだよっ。氣がねえなんて、明らかに異常だろうがっっ!」

「静かにおしっ! 落ち着きなっ! ……この数ヶ月で、少しは大人になったかと見直してやったのに、相変らず、お前はガキだね。──お前達の中に、御門家の若頭領がいたね? あいつ、呼んどいで」

「……はい!」

「ボク達で、連絡付けて来る!」

ぶつぶつと、口の中で何やらを一人呟くたか子にキレて、京一は益々声を張り上げたが、キッと、女傑は彼を睨んで黙らせ、彼女の言葉に従うべく、葵と小蒔が病室を飛び出して行った。

「何が、起こっているんだ…………」

「知らねえよ、俺が訊きてぇ……」

PHS片手に駆けて行った彼女等を見送り、醍醐も、京一も、途方に暮れるしかなく、でも。

じっと、眠り続ける龍麻を見下ろすたか子は、何も言ってはくれなかった。

喋ること出来ない自分が、たまたま隣の席になった美里葵と、必要以上のコミュニケーションを計れる筈も無いし、彼女とて、そんな自分を気遣って色々と話し掛けてくれただけのことだろう、と龍麻は思うのだけれど。

男子の中で、彼に一番最初に話し掛けた、蓬莱寺京一の忠告通り、同級生でもある不良達は、そんなこと、理解する気はなかったようで、唯、葵に親切にして貰った事実が気に喰わなかったのか、放課後、体育館裏の、人気のない一角に、龍麻を引き摺って行った。

強引に引き摺られるまま、そこへと赴いて、どうしたら……、と戸惑っている内に、彼は、同級生であり、不良グループのリーダーでもある佐久間に、一発、思い切り殴られた。

…………どうしたらいいのか、自分は、本当は知っている、と、思わなくはなかったものの。

どうしたって、体は動いてくれず。

酷く重たい一発を喰らって、地面に倒れ込んだ直後、たまたまそこを通り掛った京一が、転校生をからかうのもいい加減にしろと、何時如何なる時でも抱えている竹刀袋の中から引き摺り出した木刀を構えてまで、仲裁に入ってくれたので、龍麻は救われた。

偶然、事の成り行きを見ていた葵も、佐久間が所属するレスリング部の部長で、学園の総番である醍醐雄矢を伴い間に入ってくれて、醍醐自身も、言葉のみで佐久間を追い払い、レスリング部の者が、と頭を下げてくれた。

騒ぎ、もう終わっちゃった? と言いながら、そこへとやって来た桜井小蒔も気を遣ってくれて。

そんな彼等や、怪我の様子を見ながら立ち上がるのに手を貸してくれた京一に、有り難う、の代わりに龍麻は頭を下げた、が。

口々に、転校初日から災難だったねとか、何の変哲もない学校だけど楽しくやろうぜとか、『真神学園』へようこそとか言って来る彼等の科白に、どうしても違和感を拭えず。

拭えない違和感は、彼に、眩暈を齎した。

「おい、大丈夫か? 緋勇」

廻り始めた、遠くなって行く世界から逃れるように瞼を瞑り、ふらっと体を傾げさせた彼を、京一が支えた。

腕と肩を掴み、姿勢を戻してくれた彼に、大丈夫だと、コクコク、何度も龍麻は首を縦に振ってみせて、でも。

『緋勇』って、彼に呼ばれた。

…………何か、上手くは言えないけれど、そうじゃない。

そう、じゃない。そうじゃなくて…………、と。

一人、首を傾げた。