──午後七時五十分。

真神学園校門前に、京一は立っていた。

一人で行く、と言い張った龍麻に一度は同意し、行って来い、と送り出しはしたものの、どうしても気になった。

故に思わず、後を追い掛けてしまった。

……が、追い掛けてはみたものの、校舎の中にまで踏み入るのは躊躇われ、けれど、マリア自ら龍麻を呼び出した割には、学園内は、人っ子一人おらぬ風に静まり返り、職員室の灯りも、職員玄関の灯りも灯ってはいなかったので、ここで待つ分には……と、自分で自分に言い訳し、ウロウロと落ち着きなく、校門の内と外を、行った来たりと彼はした。

「…………何だ?」

しかし、彼の逡巡を嘲笑うように、校舎の屋上より、パッと、陰の氣と陽の氣がぶつかり合った気配を感じて、彼は校庭を突っ切るように駆け出す。

「龍麻!」

声が届く筈は無い、と判ってはいたが、屋上へ向けて叫ばずにはいられなかった。

──陽の氣は、明らかに龍麻のものだった。

…………ならば、陰の氣は。

「ちっくしょ……。やっぱ、一人で行かせんじゃなかったっ!」

……マリアが。

疑ってはいたけれど、己とて、心の何処かで信じたくはないと思っていたのだろうマリアが、龍麻に徒なすモノの一人なのかもと、降って来た現実に歯噛みしながら、彼は、校舎の中へ飛び込もうとした。

「待て、蓬莱寺」

けれども。

職員玄関の扉を押し開こうとした彼を、『声』が留めた。

──午後七時四十五分。

京一が、校門前を彷徨うろつき始める少し前。

屋上にて、少々の距離を取りつつ、マリアと龍麻は向き合っていた。

「先生、どういうことですか」

「……緋勇君。今夜、貴方を寛永寺へと行かせる訳にはいかないわ」

『この意図』を龍麻が問えば、マリアは、毅然と顔を上げ、一言、告げた。

「え?」

「………………不思議そうな顔、してるわね。……そうよね、不思議よね。何故、私がそんなことを知っているのか、って。…………緋勇君。私の話を、聞いてくれるかしら」

「…………はい」

「……有り難う。──……私はね、東欧の、トランシルバニアという所が故郷なの。貴方も、知ってるかしら? 吸血鬼伝説で有名な土地。……そう、私はね。夜の闇に──かげに住む、魔の末裔」

「先生……が、吸血鬼……ってこと、ですか……?」

貴方を、寛永寺へは行かせない。──そんな宣言から始まったマリアの話は、衝撃でしかない告白へと続き、龍麻は、瞳を見開いた。

「そうよ。人間の言葉で言うなら、私はそんな存在。……昔々……気が遠くなる程の、昔。この世には、二つの世界があったわ。ひかりに住む人間の世界と、かげに住む魔族の世界。……そもそもの、人と魔の関係は、悪い物じゃなかった。私達も、人間も、お互いの領域を侵さぬように、自らの世界で生きて来た。……でもね。何時しか、人は変わってしまった。陰に生きる私達の……永劫に等しい刻を生きる私達の『刻』や、私達の持つ力に、恐怖するようになった。そうして、恐怖に駆られた人間達は、私達の世界を脅かすようになったの。……もう、何百年も前の話。ずっとずっと、昔の……。……でもね、緋勇君」

「……はい…………」

「恐怖に駆られた人間達が、私達の世界を脅かし始めてから、今まで。もう、どれ程の数、人間達に嬲り殺されたかも判らなくなってしまった、私達の同胞が、私の目の前で消えて行った瞬間を。私の夫が、逝ってしまった刹那を。どうしても、私は忘れられないの。ずっとずっと、昔のことなのに……。……私達と人間達は、上手くやって来られた。長い間、そうだった。私達は、小説や映画の中に描かれるような、人間に徒なす生き物じゃない。なのに…………。──……もう、私の同胞も、本当に数少なくなってしまった。消えてしまった同胞達の為にも、私は魔族として生き続けなきゃいけない。……誰に何を言われても、そうやって生き続けて行きたいの。人の為にある、陽の世界で私は生きたくない。陽の世界に、私は染まれない。馴染めない。私は、気高い魔族の末裔として、気が遠くなる程の昔、世界が未だ、陰と陽に分かれていたあの頃を、取り戻したい。消えて行った、同胞達の為にも。こういう風にしか生きられない、私自身の為にも」

…………万感、とも言える何かを込めて、そこまでを告げ切ったマリアは、キラリと、その瞳を血色に輝かせた。

「……離れ難かった故郷に隠れ住んでいた時よ。極東の島国に眠る、龍脈のことを私は知ったわ。黄龍のことも。黄龍の器のことも。柳生宗崇という男のことも。……それを知った時、私は生まれて初めて、長過ぎる、この生に感謝したわ。やっと、私達の世界を取り戻せるって。だから、この街に来たの。この街に来て、柳生宗崇が、天龍院高校で龍脈絡みの何かをしようとしていると知って、ならば、と私は、この学校に教師として潜り込んだわ。天龍院と真神は、対の存在だから。天龍院の地下にも、真神の地下にも、この国最大にして最強の龍穴の為のモノが眠っている。……なら、真神にいたら、黄龍の器が手に届く所へやって来るかも知れない、そう思った。本当に、私の手の届く所へと、黄龍の器がやって来たら。柳生宗崇の目指す、陰に満たされた……私達の物だった世界が取り戻せるように、黄龍の器を、私の手で、消してしまおうとも思った。…………でも……何故かしらね。今日まで私は、それを躊躇い続けて来てしまった。真神の地下──旧校舎に眠るモノのことも、貴方のことも、執拗に調べて、確かめて……、ずっとずっと、準備だけはして来たのに。私は、私の成すべきことを、躊躇い続けた。……でも。やっぱり私は、どうしても。かつて、私達の物だった世界を取り戻したい。その為に。貴方を寛永寺には行かせない。柳生宗崇の野望の、阻止はさせない。……私は。黄龍の器たる、貴方の命が欲しい」

瞳を輝かせながら、龍麻と『こうしている理由』も語って。

マリアは不意に、腕を振った。

それは、本当に些細な動きでしかなかったけれど、些細に動いた腕は、新宿の夜の闇の中から、数多の蝙蝠を呼び出した。

彼女の、眷属を。

「………………先生。だからって、俺は、黙って殺される訳にはいきません。俺の命を、先生に渡すことは出来ません。先生には先生の、護りたいモノ、取り戻したいモノがあるように、俺にも、護りたいモノがあります。……俺は、俺の大切な人達皆を、護りたいんです。大事な人達皆を護りたいから、この街も、この世界も護るだけです。……その為に。俺は、今ここで死ぬ訳にはいかないんです」

「……そう。だったら、私を倒してでも、寛永寺にお行きなさい。貴方は貴方の為に、私を倒す。私は私の為に、貴方を倒す。……それだけよ」

「そう……ですね。戦うしか、ないんですね……」

「ええ、そうよ。貴方は貴方の為に。私は私の為に。唯、護りたいと思うモノの為に!」

呼び出された眷属は、マリアの放った強い声に応え、護るように彼女を取り囲み、又、龍麻をも取り囲むように、飛んだ。

それを見遣り、龍麻は低く腰を落として、技を放つ為の構えを取り。

「お行き、蝙蝠達!」

マリアは、再び高く叫んで。

彼の陽の氣と、マリアの陰の氣が、激しくぶつかり合った。