「誰──。──げ、犬神…………」
──龍麻とマリアが、屋上にて戦い始めた頃。
職員玄関前で、『声』に呼び止められた京一は、苛立ちも露に振り返って、その先に見付けた人物に、酷く顔を顰めた。
「犬神先生、と呼べ。…………行くな、蓬莱寺。二人の邪魔をするな」
「……はあ? 何言ってんだよ。行くなって、どういうことだ? てめぇ、何か知ってんのか? つか、知ってんだよな、その口振り」
京一に負けず劣らずの、ムスっとした顔付きで低く犬神は呟き、故に京一は益々顔を顰め…………が。
ふと、彼は考え込む。
──元々から、何処か怪しい男だと思ってはいた。
先月の出来事で、その疑いは、確信に近くなった。だから。
どうにも胡散臭い相手が、どんなことを知っていたとて、何を聞かされたとて、今更、驚きはしない。
……でも。
どうして自分は、待て、と声を掛けられるまで、うだつの上がらぬ中年生物教師にしか見えない男が直ぐそこにいることに、気付かなかったのだろう。
どうして彼は、気配すら、悟らせなかったのだろう。
……それを、京一は咄嗟に考えた。
この一年近く、異形のモノ達と戦い続けて来た彼は、人の気配にも、異形の気配にも、とても敏感になっている。
何方かと言えば、京一の戦い方は先手必勝タイプなので、自然とそうなった。
八剣との一件が起こってからは、頓に。龍麻が柳生に斬られてからは、更に一層。
なのに、犬神は、そんな彼をしても、自らの存在を悟らせなかった。
「…………てめぇ。何モンなんだ…………? 只の、しょぼくれた中年生物教師、じゃねえよな……」
その事実を胸に落とし、まじまじと、夜の闇に姿浮かばせる犬神を眺めて、京一は思わず、竹刀袋の中より刀を取り出した。
鞘より抜き去り、構えることだけは、理性で押し留めたけれど。
「残念ながら俺は、只の、しょぼくれた中年生物教師だ。お前達の、学年主任のな。……いい加減、その口の利き方を改めろ、蓬莱寺。でないと、卒業が危うくなるぞ」
「……っ、こんの……人の卒業、盾に取る気かよっ! 汚ねぇ大人だなっ! ──あんたが、只の生物教師だってんなら、制止は聞かねえ。俺は、龍麻んトコ行くぜ」
「…………この、単細胞が。だからお前はガキなんだ。──マリアと緋勇のアレは、二人の問題だ。誰が立ち入っていいことじゃない。それくらい弁えろ、クソガキ」
竹刀袋の中より取り出された得物が、木刀でなく日本刀だと知っても、犬神は、ふん、と京一を鼻で笑った。
「何なんだよ……。マリアせんせーも、てめえも、一体、何だってんだ……。第一、何で元旦のこの時間に、てめえがガッコにいやがる……」
──どうやら、この男を振り払っての強硬突破は無理そうだ。恐らくこいつは、ヒトでも異形でもない、と。
そう囁いて来る、己の勘に従って、京一は溜息を零した。
「どうしても気になるんだったら、彼女のことは、後で緋勇にでも訊くんだな。……大体、想像は付いてるんだろう? お前は、そういうことにだけは、やけに鼻が利く」
「あんたが、普通の人間じゃなさそうだ、ってくらいは想像付いてるぜ。鬼なのか、悪魔なのか、んなことまでは判んねえけどな。……多分、マリアせんせー、も」
「ご大層な想像だ。光栄過ぎて、泣けて来る。……ま、俺は、只の中年生物教師だがな」
「てめえな……。──…………っと……」
溜息を零しつつも、京一は犬神の腹を探ろうとしたが、どうやら相手の方が、一枚以上、上手だったようで。
ムカッと、彼は鞘を握り直し、文句をぶつけてやろうとしたけれど、刹那、クラリと軽く、大地が揺れるのを感じ。
もしかしてこの揺れは、龍命の塔の……、と、足を踏ん張り体を支えた。
「……やはり、処置なし、か…………」
「………………え……?」
咄嗟に身構えてしまったものの、そう言えば夕べ、龍山のジジイが、龍命の塔の封印を柳生が解かんとしている為に起こる揺れは、龍脈に連なるモノか、宿星達以外には感じられないとか何とか、言っていた筈、と。
いけ好かない男に、おかしな態度を取ってしまったのを気付かれはしなかったか、眼前の男の様子を窺った京一は、彼が、己と同じように、伝わって来た揺れに耐える素振りを見せ、ぽつり呟いたことに、驚いた。
「何で、あんたが……? ……おい。てめえは本当に、何者なんだ……?」
「だから、何度も言っているだろう? 俺は、只の、しょぼくれた中年生物教師だ、と。……この世に五万といる、只のしょぼくれた中年生物教師と俺に、差があるとすれば。少々、『愛校心』が強い、という処だろうな」
「『愛校心』?」
「俺には、この学園を護る義務がある。旧校舎の地下に、龍命の塔の片割れが封じられている、この学園を、な。……それだけだ。…………だが、やはり遅かったようだ。今からでもどうにかなるものならと、淡い期待をしてみたが。無駄は無駄でしかなかった」
「ウチの旧校舎の地下に、龍命の塔の片割れが、とはね……」
「そうだ。だから、あそこは異形のモノ達が我が物顔で徘徊する。世界と異世界の、交わる場所だから。因みに、もう一つの片割れが封じられているのは、天龍院だ。あそことここは、一対だからな。……あちらは今頃、どうなっていることやら……」
────暗に、己が『単なるヒト』ではないことを認める風な素振りを取りながらも、のらりくらりと追求を躱し続けていた男に、その時一体何が起こったのか……、犬神は、真神学園旧校舎地下に眠り続けて来た存在を、京一に教えた。
天龍院高校の地下にて眠り続けて来た、双龍の片割れのことも。
……単なる、気紛れを起こしただけなのかも知れぬが……それでも。
「…………まあ、いい、か。あんたが何モンでも」
京一は、犬神のそれを、気紛れと受け取らなかった。
どのような意図があるのか、それは判らないけれど、明確な何かを持って、彼はそれを告白したと思えたし、自分達に対する、某かの想いが籠っているようにも思えた。
だから、もういい、と。少なくとも今は、と。
尤も、そこで彼が、犬神の正体に関する追求を止めずとも、どの道それは、打ち切られる未来を迎えたけれども。
龍命の塔復活が最終段階を迎えたことによる、非常に大きな『揺れ』に、彼等は襲われたから。
「……! 龍命の塔が、復活する」
「何だと? もうかよっ!」
「蓬莱寺、お前は緋勇の所へ行けっ。屋上にいる筈だ、行って、引き摺って来いっ。下手をしたら、落ちるっ」
「言われなくともっ!」
────龍脈や宿星に連なるモノ達にだけ感じる、龍命の塔の復活が齎す揺れは、立っているのが困難な程、酷く強く。
そんな中、犬神は何処へと駆け出し、京一も又、龍麻の許を目指した。