倒したくないひとだったけれど、倒さない訳にはいかなかった。

勝ちたい、とは思えなかったけれど、勝たない訳にはいかなかった。

マリアに対する、酷く複雑な想いを伝えるべきか否か迷ったが、何を告げてみた処で、同情としか聞こえぬそれか、不躾としか受け取って貰えぬそれになる気がした。

だから、何も言わず。何の想いも見せず。

龍麻は、唯、マリアと戦い、彼女や彼女の眷属達に打ち勝ち、彼女は膝を付いた。

「……マリア先生…………」

「…………勝てないのね、私では……」

膝付いたまま、瞼を閉ざし、頤を僅か持ち上げ、何かに赦しを乞うかのように、彼女は、淋しそうに、そして何故か嬉しそうに、囁く程の声を洩らした。

「先──

──あっ!」

故に龍麻は、一度は思い留まった、マリアへの言葉を音にし掛けたが、その刹那、足を掬われたと感じた程、彼等の体は強く揺れ。

『現実』の揺れではない、が、彼等にとっては確かに『現実』のそれを堪え切れなかったマリアはバランスを崩し、再度襲った揺れの所為で、その身を、ガシャリとぶつかった屋上の柵の向こう側へ落としてしまった。

「先生!」

慌てて駆け寄り、落ちて行く体へと手を伸ばせば、辛うじて、マリアの手を掴むことは出来。

「頑張って、先生っ! 今、引っ張りますからっ」

「……緋勇君……。いいのよ……緋勇君……」

「駄目ですっ! そんなこと、出来ない!」

ふるふると首を振るマリアを龍麻は制し、力を振り絞って、彼女を引き上げようとした。

「………………ねえ、緋勇君」

「何ですか……っ」

「私は……良い先生だったかしら……。貴方達に、そう思って貰えるような教師だったかしら……」

「こんな時に、何、当然のこと言ってるんですか、先生っ。そんな、今更みたいに……っ」

「……フフ……。……有り難う…………」

けれどマリアは、龍麻が返した答えに微笑むと、再び瞳を血色に輝かせ、『爪』を伸ばし、彼の掌を突く風にして、掴む力が緩んだ隙に、思い切り、腕を振り払って。

闇の中へと、墜ちて行った。

「先……マリア先生っ!!」

屋上の柵から、マリアが消えた虚空へと、龍麻は身を乗り出したが。

もう、その姿は何処にも見付けられなかった。

「…………マリア先生…………」

彼女の姿が溶けて行った闇へと、叫ぶことも出来ず、唯、彼は、彼女の名前を呟き。

「龍麻っ!!」

丁度その時、屋上に飛び込んで来た京一へ、少し情けない顔付きで振り返った。

「龍麻?」

「………………えっと……」

「……話は後だ」

何処となく情けない顔付き、と言う他ない龍麻の表情に、京一は瞳を細めたが、今はそれよりも、と彼の手首を掴んで駆け出す。

三階分の階段を駆け下り、昇降口前を突っ切って、職員玄関から飛び出し、校庭の中程でやっと、彼等は足を止めた。

「……悪りぃ。待ち切れなくて、ガッコまで来ちまった」

へへへ、と頭を掻きながら、先ず誤摩化しを京一は告げ。

「どうしたよ。んな、情けねえツラして。……何か、遭ったか?」

何気無い風を装って、龍麻と向き合った。

「…………うん。遭った……」

悲し気に、京一へと上目遣いを寄越して、けれど龍麻は彼より眼差しを外し、校舎を振り返る。

「そっか。……後で、ちゃんと話聞いてやるよ。全部終わったら。……な? だから、今だけは忘れとけ。全部の片が付いて、明日になったら、皆々、何でも、お前の喋りたいこと、聞いてやるから」

見詰める眼差しは、何かを悔やんでいるようで。酷く、悲しんでもいるようで。

今夜の間だけは、マリアのことを忘れてしまうように、優しく、諭す如くに言いながら、大丈夫だと、京一は龍麻の肩を幾度か叩いた。

「そうだね……。皆々、終わったら、ぜーんぶ、京一に聞いて貰う。んで、八つ当たりする」

だから龍麻は泣きそうに笑って、ふっ……と視線を巡らせ、旧校舎を仰ぎ見た。

「京一……。視える?」

「……ああ。視える。アレが、この世界には存在しない、狭間の世界のモノだなんて、到底信じられねえくらい、はっきり。…………俺達だけにしか視えない、なんて、嘘みてぇだよな…………」

「そうだね。物理的に存在しないのに、俺達の目の前には、確かに。……もう少し、上に伸びそうな感じだけど。……未だ、完全復活じゃないのかな?」

「かもな。……おー、都庁の向こう側、見てみな。天龍院のある辺り。あっちも、だ。随分と立派に、聳え建ってやがる……」

「………………龍命の塔。双頭の龍、か。……あの男が野望を果たすようなことがあれば、今は俺達だけにしか視えてないこの景色も、全ての人に見えるようになるんだよね。俺達にだって、去年までは有り得ない世界だったモノが、この世界に溢れる……」

──見上げたそこには、ゆらゆらと、まるで蜃気楼のように、龍命の塔と呼ばれるモノが、聳えていた。

確かにこの世の物と思える、けれど、決してこの世の物ではないモノ。

その名の通り、黄龍に、『命』を吹き込む塔なのだろう。

名とは裏腹に、亡霊の如くに視えるけれど。

「……行こうぜ。寛永寺に」

「うん、行こう」

………………亡霊の如くな、蜃気楼とも見える、龍命の塔。

それに背を向けて、二人は新宿駅を目指し始めた。

柳生宗崇を倒す為に。

龍命の塔を、狭間の世界へ還す為に。

ナニモノに立ち向かってでも、護りたいモノを護り通す為に。

彼等は、歩いて行った。

……仲間達も、待っている。