疾っくに面会時間は終わっている病院の廊下を、先に到着していた仲間達も、龍麻達も、そうっと、たか子にバレぬように、それだけを祈りながら進み、京一の病室に向かった。

幸いに、何とか無事に彼等は辿り着け、一度に全員で入室するのも、と幾人かずつに分かれて交代で京一を見舞って、皆、意識の戻らぬ彼へ思い思い話し掛けたり、癒しの術を唱えてみたり、氣を分け与えてみたりとして。

今日はもう遅いから、又明日来る、と言ってくれた仲間達が家路に着いた後、誰にも悟られぬように引き止めた劉と二人、居残った病室の、例のパイプ椅子に龍麻は腰を下ろした。

「アニキ? 何で、わいだけ引き止めたんや?」

何故、己だけを、しかも皆にバレぬように、と、それが不思議で、劉は首を傾げながら、ズルズルと引き摺って来たもう一つのパイプ椅子に、龍麻と並んで座ってみた。

「………………頼みがあるんだ」

すれば、何処となくバツが悪そうに、誤摩化しめいた笑みを浮かべつつ、龍麻は事情を語り出す。

「頼み、て?」

「柳生に斬られた時も、輪廻の輪から外れた世界に飛ばされてた時も、『あの時』も。京一は、俺との約束、守ってくれたんだ。……俺が、京一の氣は、真夏の太陽みたいで気持ちいいって、年中そんなこと言ってたから。京一の氣の場所──京一の場所が判れば、何処からでも俺は帰って来られる、なんて言ったから。京一は、俺に何か遭ったら自分の氣で引き戻してやるって約束してくれて、何度も何度も、その約束、守ってくれた」

「……そなや。京一はんは、そないなお人やから」

「だから、今度は俺の番なんだ。俺がそうされて嬉しかったみたいに、氣を込めて触れたら、京一、嬉しそうにしてくれたことあったから。……でも今、俺の中にはアレがいるから、氣を使うことに、あんまり自信持てないんだ。……そういう訳で、劉に付いてて貰おうかな、と。…………もしも、俺に何か遭ったら、頼むね」

「アニキ………………。………………何で、わいやねん……」

きちんと、『事情』の全てを龍麻は言葉にしなかったが、暗に彼が言わんとしたことを劉は察して、酷く顔を顰めた。

「何で、って……。劉は、憑き物落としが出来るからだよ。万が一の時の、こう……封印って言うか、封じ込めって言うか、そういうのもイケるんじゃないかと。封龍の一族だし」

「そんなん、御門はんかて、裏密はんかて、出来るやないか」

「御門に頼むと、大事になりそうだし、裏密さんに頼むと、真神の皆にバレるから」

「そやかて……」

「……消去法で、劉しかいないって思った訳じゃないよ。劉はさ、俺の、義弟だから」

「……………………そういうんは、狡いで、アニキ……」

「狡い、かな?」

「そうや。狡いに決まっとるやないか。……そやけど、そんなん言われてもうたら……。……ほんまに、しゃーないなーーーっ。アニキには敵わんわ……」

「有り難う」

顰めっ面は、やがて酷い渋面となったけれど、劉は溜息付き付き、仕方無い、と義兄の頼みを渋々受け入れ、良かった、と笑った龍麻は、ベッドの上に投げ出すようにされている京一の右手を、己が両手で握り込んだ。

……そのまま、随分と長い間、病室には沈黙が下り。

聞こえる筈無い、点滴の中の液体がチューブへと落ちて行く音さえ聞き取れる程静まり返って、でも。

室内の光景は、何一つ変わらなかった。

閉ざされたままの瞼はピクリともしなくて、どれ程強く手を握り込んでも、返される力はなく。

「本当に……」

「ん? 何や? アニキ」

「本当に、京一って、馬鹿だよなあ………………」

「そやな。……そやけど、言われとる程、馬鹿なお人やないやんか。アニキかて、判っとるくせに」

「……うん。知ってる。京一は馬鹿じゃないよ。…………でも、馬鹿。凄い馬鹿。ド阿呆。………………起きたら、一発殴ってもいいかな。って言うか、殴る。自分の命まであっさり懸けるような、大馬鹿なんか……っ」

「………………ほんなら、わいも混ぜてぇな。わいも、一発殴っとくわ、京一はん。殴らんと、気ぃ済まんし。アニキにも、わい等にも、こないに心配掛けて……」

痛い程の沈黙を続けても、決して移ろわぬ光景に、耐えられなくなり始めたのだろう。

指先に力を込めること止めぬまま、ボソボソと龍麻は呟きを始め、劉は、それに付き合った。

……どんな他愛無いことでも、意味の無い話でも、龍麻には、何かを喋り続けていて欲しいと劉は思った。

──又、下手に思い詰められるよりは、少しでも発散してくれた方がマシだ。

義弟だから、の『殺し文句』を引っ提げて、龍麻は自分を頼ってくれたけれど、今ここで、彼が恐れる『何か』が本当に起こってしまったら、きっと、自分にはどうしようもない。

どうにかなってしまった龍麻を引き戻せるのも、そんな彼へ『声』を届けられるのも、恐らくこの世では、京一、唯一人だろう。

そして、その唯一は、今。

「起きてくれない、かなあ、京一……。俺の目が覚めた時みたいに、俺の氣を感じて気が付いてくれたら、凄く嬉しいんだけどなあ……。でもきっと、そんな風に都合良くはいかないんだろうな……」

…………一人、胸の内でのみ、そんなことを考えながら、独り言のような呟きに付き合う劉の様子には気付かず、龍麻は、ひたすらに言葉を続け。

「……目覚めて、欲しい…………。気が付いて欲しい……。もう一度、ひーちゃんって、龍麻って、呼んで欲しいよ……。京一…………」

けれど、劉の思惑とは裏腹に、彼の面はどんどん翳りを帯びて、俯きを深くし、京一の右手を握り締めた両手は、綺麗な黄金色を帯び始めた。

「……! アニキっっ。そないに思い詰めたらあかんっっ!」

義兄の両手に纏わり付き始めた、綺麗な綺麗な黄金色の光に気付き、劉は、龍麻の肩を掴んで激しく揺すぶった。

「………………許して貰えるかな。……俺、京一に許して貰えるのかな……」

しかし、彼の声はもう、龍麻には届かなくなっていて。

「アニキっっ! アニキ、頼むさかいに……っ!!」

『最悪の事態』を覚悟し、背に負う青龍刀の柄に腕を廻しながら、祈るように劉は叫んだ。

────何時、その刹那の出来事を、思い出しつつ振り返っても。

劉はそれを、決して、奇跡とは思わない。

奇跡など、この世にはないから。

それを彼は、十二分に知っているから。

……でも。

「……………………………………うる、せー……」

彼が、覚悟さえ決めて青龍刀を掴み掛けた時、ふっと、龍麻から洩れ始めていた黄金色が褪せて、そして、褪せた途端。

酷く不機嫌そうな声が、生死の境を彷徨いながら横たわり続けていた男の口から洩れたのを、劉は、何時思い起こしても、感慨深く思う。

この世には決して有り得ぬ奇跡の瞬間に立ち合えたような、感慨を。