己達の門出の為に、一輪だけ咲かせることを許して欲しいと、京一が、己が『想い』で以て、桜の蕾を一つだけ開いた卒業の日も遠くなり。
時は、緩く、それでいて慌ただしく流れ。
この一週間、連日連夜報道されていた、NATO軍によるコソボへの空爆のニュースが漸く落ち着き始めた、三月三十一日 水曜、早朝。
成田国際空港第一ターミナル行きのリムジンバスに乗る為に、京一は、新宿駅西口バスターミナルの片隅に、一人立っていた。
大きな荷物は、劉が気を利かせ、先に送る手配をしてくれたから、彼は、至極身軽な格好だった。
一寸そこまで日帰りで旅行に、とでもいう風情の。
凶器、としか言えない得物を確実に異国に持ち込む為には致し方ないことと、やはり劉に説得され、肌身離さぬ『竹刀袋の中味』も、今は彼の手にはなく、それだけが、どうしても落ち着かなかったが、「気になるんなら、傘でも持ってれば?」と龍麻にからかわれた為、仕方無く、『手ぶら』を妥協しながら。
後は、相棒がやって来るのを待つだけと、彼は、辺りを見回した。
流石に、何時戻って来られるかも判らない旅に発つ前夜くらい、家族水入らずで過ごせと、夕べ、龍麻に言い渡されてしまったし、龍麻も龍麻で、昨日は何やら予定があるようだったから、もう程無くすればやって来るだろう彼と京一との『再会』は、『一晩振りの再会』で。
でも、これから自分達が向かう場所は、海の向こうの中国、と、浮き立つ視線を、龍麻がやって来るだろう方向へ京一は注いだ。
「……うわ! 京一が、もう来てる! こんな日でも遅刻するかも知れないって思ったから、待ち合わせ時間、早めにしたのにっ」
すれば、思った通り、待ち合わせ時間ジャストに、見詰め続けた方角より、己の『感覚』に馴染み切った気配、親しみ切った氣、見間違えようの無い姿、それ等が近付いて来て。
「おはよう、京一。御免、待たせた?」
「…………おう。俺もさっき着いたトコだから、待っちゃいねえけど。っつーか、もう来てるって、どーゆー言い種だ。……………………いや、そんなことよりも、ひーちゃん……」
「何?」
「お前…………髪、どうした?」
自身と似たり寄ったりの軽装、似たり寄ったりの少ない荷物で登場した龍麻を、頭の先から足の先まで一瞥し、京一は、不思議そうに眉を寄せた。
「………………へ、変? ……似合わない?」
……彼が、訝し気に龍麻を見遣ったのは、道理かも知れなかった。
真神に転校して来た日、遠目には表情も窺えないくらい、瞳の殆どを隠してしまう、鬱陶しいそれ、と京一は評した龍麻の前髪が、短く切り揃えられていたから。
尤も、短く……とは言っても、今までに比べれば、と言った程度で、但、表情も瞳も露にはなる長さで。
それを京一に指摘された龍麻は、己の黒い髪の先を、気恥ずかしそうに引っ張った。
「いいや。そんなこたねえけど……でも、今まで、鬱陶しいから切っちまえって、俺や他の連中に幾ら言われても、ひーちゃん、髪型なんか気にする素振りも見せなかったのに。今になって、どうしたよ?」
「その…………。……俺が東京でしなくちゃならなかったことも終わったし、高校も卒業出来たからさ。少し、髪型でも変えようかと思ったんだ。──あ、京一。ジュース買う? 何飲む?」
「コーヒー。甘くない奴。──…………で?」
「もう、随分前のことだけど。京一には、話したよね、真神に来るまでの俺のこと」
ちょいちょいと、前髪を弄り続ける仕草を続けながら、成田行きのリムジンバス乗り場の片隅にあった自動販売機で、龍麻は、己と相棒の分の缶コーヒーを求め、それを手に、丁度滑り込んで来た大型バスに乗り込みつつ、ぽそぽそっと話を続ける。
「……真神に来るまでのお前の話? ……どの話だ?」
「それまでの俺は、平凡過ぎる人生送ってた、って奴だよ。勉強も、スポーツも、何でも平均で、何でもそこそこに出来て、何でもそこそこに出来なくて、友人関係ですら、そうだった、って話。…………何をやっても目立つことなんかなくて、苛められっ子みたいに爪弾きにされることもない代わりに、誰にも本気では相手にされることがなかった。あの頃の俺の存在なんて、何時でも、どんな輪の中でも、ひっそりしてて。……やっぱりそれは、淋しかった」
「………………そうだな。そういうのは、淋しいな」
「けど、それを何とかしようとするのを、あの頃の俺は、怖いと思ってたんだと思うよ。だからね、理由……と言うか、『言い訳』が欲しかったんだとも思うんだ。俺がこんな風なのは仕方無いんだって、思い込む為の『言い訳』。その一つが、パッと見には表情なんか判らないくらい長い、前髪だったんだと思う。……あの頃の俺には、そんな自覚なんかなかったし、今になって思えばって奴だし、こっち来て、京一や皆と仲良くなれて、毎日、忙しいけど楽しくもなってく内に、本当に、髪型なんかどうでも良くなったけど」
「……実家にいた頃のお前って、今に輪ぁ掛けて、自虐的だったんだな」
「…………うるさいよ。今はそんなことないんだから、いいだろうっ? ──ま、そういう訳でさ。最近になってやっと、あの頃の俺って、もしかしたらそうだったのかも知れない、って思い当たって……だからね。折角、自分の意志で決めた人生送り始めるんだから、髪型の一つも変えてみようかなー、って、夕べ、切って来た」
清算を済ませて乗り込んだバスの、後部寄りの席を陣取って、買ったばかりの缶コーヒーを開けながら、龍麻はそんな話を京一に聞かせた。
「成程…………」
だから、改めてまじまじ、肘掛けに頬杖を付きつつ、京一は相棒の顔を覗き込み。
「……何? そんな風に見詰められると、恥ずかしいんだけど…………」
「お前、さ」
「………………だから、何」
「よく、劉の奴が言ってた通り。……別嬪、だな。知ってたけど」
「…………………………キョーイチ君ー? それは、どーゆー意味かなー?」
「まんま、言葉通りの意味。褒めてんだよ、一応。女顔だなー、とは思うけどよ」
「殴るよ?」
「褒めてんだから、握り拳を固めるなっての。…………似合ってるぜ、ひーちゃん。俺は、好きだな」
「そうかな?」
「ああ。別嬪さんだぜー?」
「……何時終わるかも判らない旅の道連れ同士、今の内に、付けられる話はきちんと付けておこうか、京一」
ホントー…………にしみじみ、ボソっとからかい混じりの感想を洩らした彼は、龍麻に、ボカリと後頭部を殴られた。
丁度、その時。
リムジンバスは、成田空港目指して、新宿駅西口バスターミナルを出発した。