──京梧──

花のお江戸からは遠く離れた片田舎にある、一万石と少しの、小さな外様藩の藩士であり蓬莱寺家当主。

それが、俺の親父殿の身分だった。

戦国の頃、とまでは行かねぇらしいが、それなりには古くから続いてる蓬莱寺の家に入り婿した、同じ藩士の処の三男坊だった親父殿は、人はいいし真面目だが、な口で、年中薙刀振り回してるお袋様の方が、親父殿よりも遥かに男らしかった。

だが、息子の俺が言うのも何だが、武芸の方は空っきしでも、親父殿は、人の親としては至極真っ当……、と言うか、物分かりのいい人だった。

勇ましいなんてもんじゃねぇお袋様も同様だった。

だから、餓鬼の頃から俺は、存分に好き放題やらせて貰った憶えがある。

俺は、蓬莱寺の家の惣領だったから、本来なら、家を継ぐ為のあれやこれやに縛られなきゃならなかったんだろうが、親父殿もお袋様も、そんなことには頓着しなかった。

元服する前も。元服してからも。

両親ふたおやが、俺をあしらう術に変わりはなかった。

…………きっと、それ故に、って処もあったんだろう。

何一つにも縛られず。奔放に。

俺は、剣の道だけを辿った。

────物心付いた頃から、俺は、剣術の虜だった。

段平だんびらを振り回してさえいられりゃ満足だった。

始めは竹刀。それから木刀。やがて本身、と。

手にする得物は、年頃に合わせて変わったが、餓鬼の頃から、そして長じても、剣術だけが俺の全てだった。

もしも、俺が虜になったことが、『呑む・打つ・買う』辺りだったら、流石の親父殿もお袋様も、決して許しはしなかったんだろうが、武家に生まれた男子が剣術に打ち込むのは、褒められこそすれ、指差されるようなことじゃねぇから、誰も咎め立てはしなかった。

それをいいことに、俺は存分、剣の道だけに己を浸して。

何時しか、天下無双を夢見るようになった。

……言葉にされたことは一度とてないが、腹の底を開いちまえば、きっと、親父殿もお袋様も、俺が、故郷の城下町ではそこそこに知られた剣の腕を携えて、蓬莱寺の跡目を継ぐと、当然のように思い描いていたんだろうとは思う。

俺とて、前髪が下がっていた頃は、そんな風に思ってた。

…………けれど、ふ、と気が付いた時には既に。

己の剣だけを信じること、天下無双の剣を目指すこと、己よりも強いモノだけを求めること。

それが、俺の全てになってた。

……いいや、もしかしたら。

俺が、蓬莱寺京梧、と言う名を持つ『俺』になるよりも早く、『剣』は、俺の全てだったのかも知れない。

────だから、十七になった年だったか……それとも十六だったか……、兎に角そんな歳になった頃。

生まれ育った家にも、親兄弟にも故郷にも、俺は背を向けた。

馴染み親しんだ家を、家族を、町を捨てて、浪々の日々に足踏み入れた。

……試してみたかった。

一振りの刀と己が剣の腕のみで、果たして何処まで行けるのか。

そして、欲しかった。

何時の頃からか焦がれ始めた、天下無双が。

──強くなりたい。己が剣だけを全てとして、誰よりも強くなりたい。

天下無双の剣が持ちたい。その頂に立ちたい。

何時か見えるだろう剣の道の果ての頂──否、きっと辿り着いてみせる、剣の道の果ての頂に立ちたい。

天下無双の剣と共に。

………………それが、俺の望みだった。俺の全てだった。

誰にも告げず家を飛び出し、望みと『全て』と一振りの刀だけを引っ下げ、諸国の放浪を始めた俺は直ぐに、俺が見知っていた場所が、如何に狭く小さかったのかを思い知らされた。

世間は広かった。

あの頃の俺なんぞより、遥かに強い連中は幾らでも転がってた。

始めの頃は、そんな連中に挑んでは軽くあしらわれ、悔しさに、幾度となく暗涙も飲んだが、西へ、東へ、北へ、南へ、巡り巡る内、何時しか俺は、挑む側でなく、挑まれる側になっていた。

それでも俺は、俺と言う男を、俺の剣を、一歩でも天下無双へと近付けてくれる強い相手を求め、世間を彷徨い続け。

────慶応二年の、春の初め頃、だったと思う。

ふと俺は、江戸を目指してみる気になった。

決して思い上がってた訳じゃねぇとは思うが、二十歳はたちになってたその頃にゃ、ちょっとやそっと、音に聞こえる腕前の奴を相手にしても、遅れを取ることなんざ有り得なくなっていて、でも、花のお江戸へ行けば、俺の求める強い相手との巡り逢いが望めそうだったから。

何処其処に、こんな強い奴がいる、との噂を拾っては、気侭に動かしていた足先を、俺は、江戸へ向けた。

その頃俺がいた場所は、信濃の国の下諏訪宿の近所で、のんびり諏訪の宮に詣でてから──諏訪の大社は関より東の軍神の一つでもあるから──、甲州街道を江戸へと辿った。

急ぐ旅では有り得なかったから、本当に暢気に街道を往って、幾日もが過ぎた頃。

丁度、桜の盛りの頃。

俺は、高井戸の宿を越えて少しばかり行った所の街道端に、ひょいっと顔見せる茶屋に寄った。

高井戸宿の出口辺りから俺の前を歩いてた、薬箱をぶら下げてた若い女の後を、むさ苦しい浪人風の男三人が、やけに仰々しい感じで尾けているのに気付いたからしたことで、厄介事か、揉め事か、何にせよ、数日振るえなかった刀が振るえるんじゃねぇかと思って、女が立ち寄った茶屋の暖簾を俺も潜っただけだったんだが。

────俺は、そこで。

俺の『運命さだめ』に巡り逢った。