──龍斗──

大きな手に揺すられ、落ちていた眠りから目覚め、辺りを見回せば、丁度正面にあった暖簾の下がる入り口から差し込む陽射しが目に入って、それは、夕刻のものだと判った。

夕方だと言うのに、私は何処で寝てしまっていたのだろうと、一層辺りを見回せば、どうも、己は茶屋にいるらしい、とも判り、

「お客さんっ!」

が、ぼんやりしていた私に焦れた様子の、店の主らしい壮年の男に耳許でそう怒鳴られても、何だろう……、と無言で首傾げるしか私には出来なかった。

「全くもうっ。居座るんなら注文くらいしとくれっ!」

そんな私の様子に、主は諦めを覚えたのだろう、文句だけを言い残して去り、

「あの……、貴方、何処かお加減でも?」

直ぐさま、今度は若い女人の声が掛かった。

美里藍、と名乗った彼女は、私が具合を悪くしていると思い込んだようで、薬を飲むかとか、診ようかとか、心を砕いてくれたが。

正直、彼女の言葉そのものにいらえているゆとりなど、その時の私にはなかった。

盛大に怒鳴った主の声は、耳許での苦情故、何もせずとも私にも飲み込めたが、彼女の言葉は、本来なら『皆』の声を遠くに押しやって初めて私に届く筈の音で、だと言うのに、『皆』の声が傍らで渦巻いている中でも、彼女の声は、『少しばかり遠い』程度で済んでいたから。

美里藍と言うこの人は、一体何者なのだろうとの驚きに、私は満たされてしまっていた。

と、そこに、薬を飲む為の水が欲しい、と彼女が呼んだ、お花と言う名らしい若い女中がやって来て、水を汲んだ茶碗を渡してくれたお花の言葉も、藍のように『少しばかり遠い』で済むのは何故だと、私は益々、驚きだけを覚えた。

だから、彼女達への応えは、至極いい加減なものになってしまって、何時の間にやら、私は藍と共に、この先にある内藤新宿の診療所へ行くと決められてしまって。

どうしたら良いだろう、具合が悪い訳でも何でもないのに、と内心でのみ困惑しつつ、『ここは甲州街道の筋で、高井戸の宿の傍だ、貴方はこのまま、江戸へ往けばいい』と囁いてくる『皆』の促しに、唯、頷いていたら。

「おい、あんた。こっちだ、こっち────

背後から、私を呼ぶ、若い男の声がした。

────……その声は。

驚きを通り越した、愕然たる想いを私に齎した。

物心付いた時より私の傍らに在る『皆』の『声』を打ち消して、尚、余りある声だったから。

生まれて初めて、確かに私にはっきりと届いた、人の声、だったから。

「あ…………」

この声の持ち主は何者か、私はそれを知りたくて、己が声震わせ振り返った。

──そこにいたのは、の光で染めたと見紛う程に明るい栗色の髪を総髪に結い上げた、浪人らしき青年だった。

歳の頃は私と同じくらいの、生き生きとした、強い光を鳶色の瞳に宿す男。

……そんな彼は、私の目には光り輝いて見えて──例えでなく、自ら光を発する珠に見えて、私は思わず目を細めつつ、続く彼の言葉に耳傾けた。

「よう。あんた、江戸へ行くのかい?」

すれば、藍とのやり取りを聞いていたらしい彼はそう言い、

「俺は、蓬莱寺京梧。こいつ一つで流れ旅だ。宜しくな」

名を名乗り、軽く笑み掛けてきた。

「……私こそ。緋勇龍斗と言う。宜しく」

蓬莱寺京梧と名乗った彼が、どれだけ喋ろうとも、どんな言葉を言おうとも、彼の、『皆』の『声』すら無きが如くにしてみせる力強い声、強い声に乗る同じく強い想い、それは私に届き続けて、だから私は、どうしようもなく嬉しくなって、泣きそうになる程嬉しくて、微笑み返し、名乗り返し、彼の話に耳を貸した。

さすれば直ぐに、彼は、血気盛んな──有り体に言えば、喧嘩っ早い質をしているのが解った。

随分と上手く、他人に喧嘩を売らせる男であるのも。

そんな彼の質の一端は、人によっては眉顰めるのかも知れないが、話を聞いているだけで、一端とは言え他人の質を解れたこと、他人の言葉の意が解ること、それが嬉しくてならなかった私には、いっそ好ましく思えて、ひたすらに笑みながら、何時から茶屋にいたのか私は知らぬ浪人達の一人が、彼の思惑通りに彼に突っ掛かっているらしい様──浪人らしき男達の声は、ちっとも届いて来なかったので、突っ掛かっているらしい、としか判らなかったが──を眺め、浪人達が大人しくなってしまってよりは、彼が奢ってくれた団子を口にした。

…………舞い上がっていた為に、その間のことを私は余り能く覚えていないが、きっと、その時の私は、常よりも遥かに饒舌で、常よりも遥かに、或る意味では容赦無かったのだろうと思う。

兎に角、私にもきちんと届く声と想いの持ち主である京梧と語り続けていたくて、思うことを思うままに話したことだけは覚えているから。

そんな私に、彼は嫌な顔一つせずに付き合ってくれて、だが、茶屋を発つ支度をしていた藍が戻って来るより先に、一足早く腰を上げてしまった。

彼も江戸を目指していると言っていたから、江戸の西の端の一つである内藤新宿までの僅かな道行きだけでも、共に出来たら、と私は秘かに思っていたのに。

さりとて、彼を引き止める口実もなく、気後れしてしまったが為、共に江戸まで行かないか、とも言い出せず、先に発ってしまった彼を追うように、私は藍と共に、お花に見送られつつ茶屋を発った。

──店を出、甲州街道を辿り始めて暫しが経った頃、私が具合を悪くしていると信じ切っていた藍は、少し休もうと言い出した。

その必要は無いから、と断りを入れてはみたが、その時の彼女の中での私は何処までも病人だったらしく、結局、街道端の大きな桜の木の下にて休むことになり。

そうしていたら、先程の茶屋で京梧と何やら言い合っていた浪人達が突然姿見せ、問答無用で藍を勾引かどわかそうとした。

勾引し、などと言う無体は、到底許せる筈の無いことで、助けに入れば。

「こんな往来の真ん中で、物騒なことはするもんじゃないぜ」

彼等が何かを仕出かすだろうと踏んで先回りをし、私達が休んだ桜の木の枝上にて待ち構えていた──と私は後でその成り行きを知った──京梧が、枝上より飛び下りて来た。

それまでは見事に気配を隠していたらしい彼が、顰めていた気配を解き放った瞬、彼がそこにいると私にも判り、故に桜を振り仰げば。

時置かずして、又彼に出逢えた喜びを、素直に頬に浮かべてしまったのだろう私を見下ろして来た彼は、刹那、困ったような、拗ねたような顔しながらも笑み返してくれて、だから私は、振って湧いた荒事の直中にありながらも、夢見心地だった。

京梧に曰く、始めから藍に目を付けていた浪人達とも、唐突に姿現して、私達と浪人達のやり合いを見物するだの何だのと、酔狂なことを言い出し、本当にそうして、何が目的だったのやら、そして本当の正体は何なのやら、な九桐尚雲と名乗った破壊僧とも、成り行き上死合うことになったが、双方共に退けることは叶い、藍も無事で。

秘かに願っていた通り、私は京梧とも、残り僅かな江戸への道行きを共に出来ることになった。

浪人達が言っていたらしい『御館様』だの、尚雲が言い残した『菩薩眼』だの、との言葉は、少しばかり心に引っ掛かったし、尚雲も、藍やお花のように『少しばかり遠い』だけで済む『声』の持ち主だったから、その辺りも、単なる破壊僧とは思えぬあの強さも気になりはしたが、戦っていた最中も、その後も、私の想いは、京梧唯一人に囚われがちだった。

共に肩を並べ、互いの背を護るようにして戦ってみて漸く気付いたのだが、意図しているのか、それとも意図せずにしているのか、そこまでは判らなかったけれども、彼は、氣と呼ばれる『力』を拳や脚に乗せて戦う私のように、己が氣を刀に宿らせ戦う術を弁えていた。

要するに、唯人には容易に叶わぬ術を、何故か叶えている剣士だった。彼の剣は、我流であるらしいのに。

故に、彼の声や想いだけは私にもきちんと届く、と言うことだけでなく、容易く氣を操れる、と言うことも気になって。

あの茶屋で、掛けられた彼の声に振り返った時、彼が、自ら光を発する珠のように見えたのは、彼が内に抱える迸らんばかりの陽の氣を、感じるよりも先に視たからだ、と悟って。

傍らの二人と語らいつつも、私はその実、京梧の横顔のみを盗み見ていた。

────光の珠と目に映る程の陽の氣を内に携え、確かに私にも届く声と想いを持つ、この、蓬莱寺京梧、と言う男は。

この男と出逢ったことは。

私の運命さだめかも知れない、と思いながら。

私は、この男に出逢う為に、今日、あの茶屋にいたのかも知れない、この男が、真に私の運命だったら良いのに、とも思いながら。