──京梧──
厄介事の匂いを嗅ぎ付け、それを追う為暖簾を潜った茶屋で、真っ先に俺の目に入ったのは、入り口の真正面にあった小さな上がり座敷の隅で、面を伏せたまま横たわり、死んだように眠る一人の男だった。
座敷の卓には茶碗も皿もなく、注文もせずに眠りこけるたぁ、良く言っちまえば剛胆な、悪く言っちまえば愚かな、そんな男だ、と先ず思い。
随分と毛色の変わった奴だな……、とも思い。
何時からそんな風に寝てやがるのか、痺れを切らした店の親父に怒鳴り声で叩き起こされ、ゆらゆらと起き上がった、が、目が覚めてもひたすらにぼんやりしている男に、茶屋の暖簾を潜る切っ掛けを俺に与えた例の女が話し掛けるのを、俺は盗み見た。
座敷の前の席を取り、具合が悪いんじゃねぇかとか、薬を飲んだ方がいいとか、臆することなく、毛色の変わった男の世話を焼き始めた女と、女に呼ばれて水を運んで来た女中と、どうしたらいいのか判らねぇ風に、戸惑いながら応える男のやり取りに耳峙てて。
美里藍、と名乗った女に、緋勇龍斗、と奴が名乗り返すのを聞きながら、「野郎の声だってのに、やけに耳障りが良い」と、妙な感慨を覚えつつ、女──美里に押し切られるまま内藤新宿の診療所へ行くとの話に頷いた奴に、美里が離れた隙を見計らって、俺は声を掛けた。
「おい、あんた。こっちだ、こっち────」
軽く、が、少々強引に聞こえるだろう声で奴を呼び付けてみれば、
「あ…………」
震える声を洩らし、何かに酷く驚いたようなツラして、瞳見開きながら、奴──龍斗は振り返った。
が、驚きたいのはこっちだった。
それまでは、伏せられていたり、美里や、お花って名らしい女中の影に隠れて能く見えなかった奴のツラは、こっちの心の臓が勝手に跳ねちまうくらい出来が良かったから。
それこそ、女と見紛うばかりに。
だから俺は、何でか照れ臭くなっちまったのを誤摩化す風に、あんたも江戸へ行くのかと、聞き齧った話を持ち出し、名を名乗った。
「俺は、蓬莱寺京梧。剣
「……私こそ。緋勇龍斗と言う。宜しく」
名乗ってやれば、何時の頃からか俺を見遣る目を眩しそうに細めていた奴は、どういう訳か、どうしようもなく嬉しそうに名乗り返し、何が楽しいのか、にこにこと、まるで春風のように微笑みながら俺の話に耳傾け始めた。
…………正直なことを言っちまえば、その時の俺は、内心、勘弁してくれ、と声張り上げたかった。
そんな、出来の良過ぎるツラ引っ下げて、俺の話が聞けるのが嬉しい、と言わんばかりの目をして、幸せそうに、春風みたいに笑まれ続けたら、相手は野郎だと判っちゃいても、妙な気分になりそうだったから。
……そう、奴は男で、ちょいと毛色が変わってて、何処からどう見ても素性の怪しい、渡世人の如くな格好をしてやがったから、妙な気分になりそう、との心地が、そもそも妙だったんだが。
心底嬉しそうに、案外容赦の無いことを、耳障りの良い声で、おっとりと──きっと、奴にしてみれば早口の内に入るんだろうが、俺には、おっとり、としか聞こえなかった──喋りながら春風みたいに笑う、佳人もかくや、な奴が眼前に居続けるのは、心の臓に悪過ぎた。
俺には衆道の気なんざねぇぞ、と自分で自分に真剣に言い聞かせたくなる程。
だが、そんな俺の妙な心地なんぞ、奴にも、他の誰にも悟られる訳にゃいかなかったから、頼んだ団子を運んで来た女中のお花が始めた、今の江戸には『鬼』が出るだのってな噂話に無理矢理花を咲かせてみたり、そもそもの目的だった厄介事──美里相手に殺気を飛ばす戯
奢ってやった団子を、そりゃあ幸せそうに食う龍斗を残し、俺は一足先に腰を上げた。
同じ江戸へ行くと言うなら、道行きを共にしても……、と思わなくもなかったんだが、そんなことをしちまったら俺の心の臓がおかしくなりそうだったし、厄介事を楽しむ方が先だったから。
佳人よりも見事なツラや、耳障りの良過ぎる声を抜きにしても、どういう訳か、龍斗は、俺の心の襞に引っ掛かる、有り体に言えば理由
俺は、茶屋の暖簾を潜って、盛りの桜が所々に姿見せる甲州街道を辿り始めた。
二度三度、龍斗を残した茶屋を振り返るのは、止められなかったが。
内藤新宿目指し、暫し歩いた所にあった、見事な桜の木を見付けた時。
ここならいいだろう、と俺は、その枝に登った。
厄介事を待ち伏せるにゃ持って来いだと思った。
浪々の旅に出た日よりの『相棒』を肩に担ぎ、占めた枝上にて桜見物と洒落込んでいたら、案の定、龍斗と美里と、美里を追う浪人共がやって来た。
龍斗は、休まずとも、と言ってやがったが、やはりそこでも奴は美里に押し切られて休みを取り始め、好機と思ったのだろう、浪人達は、美里を勾引そうと動き始めた。
勾引しなんてな、奴等の無体を許すつもりは龍斗にもなかったらしく、奴は助けに入って……、俺は僅かの間だけ、どうするか、と悩んだ。
浪人共とやり合うのが俺のそもそもだったんだが、龍斗の身のこなし、目の運び、落ち着き払った態、その全てが、奴が、恐らくは徒手空拳の、相当な遣い手であると物語っていたから、『そもそも』はどうでも良くなり始めて、それよりも、奴の強さってのを知りたくなり、故の躊躇いだったが。
流石に、段平が得物の三人相手に、一人徒手空拳で立ち向かうにゃ荷が重いかと考え直して、
「こんな往来の真ん中で、物騒なことはするもんじゃないぜ」
消していた気配を解き放ち、俺は枝より飛び下りた。
──気配を解き放った瞬、『俺』に気付き振り仰いで来た龍斗が、刹那、嬉しそうに、そして春風のように笑んだのが、殊の外、気分に良かった。
やり合いの果て、『御館様』とやらの為に美里を勾引そうとしていた浪人共も、何が何だか能く判らねぇ内に乱入して来やがった破壊僧の九桐尚雲って奴も、伸すことは出来たが。
これも何かの縁だから、内藤新宿まで共に行こう、となった龍斗や美里と街道を歩く俺の機嫌は悪かった。
目的も正体も謎な糞坊主に刀を弾き飛ばされる、ってな遅れを取っちまったことが、どうしても癪に障った。
まあ、世間は広い、俺の求めていた強い相手が現れただけのことだ、と手前に言い聞かせている内に、どうにか機嫌は直ったが、あの糞坊主が癪に障るのは変わりなく、何時か絶対、あの借りは返してやる、と誓いつつ。
俺は、ちらちらと俺を盗み見て来る龍斗の様子を、こっそりと窺い返した。
──肩を並べ、互いの背を護るようにして戦ってみて、判った。
奴は、俺が、浪々を送る内に何時の間にやら出来るようになった、内なる力──何時だったか、西国の方で立ち合った初老の剣士に、お前が振るうその力は、氣、と言うのだ、と教えられた力──を、至極当然の如く、拳に、脚に乗せ、戦う術を心得ている、と。
だから俺は、益々龍斗が気になって、気に入って、惹かれて……そして。
俺は、『巡り逢い』を果たす為、江戸へと導かれたのかも知れねぇな、と。
柄にもなく思った。
その、『巡り逢い』の芯にいるのは、龍斗なのかも知れない、とも。