──龍斗──
辿り着いた江戸の町は、あの茶屋でお花が噂していた通り、夜毎、『鬼』が徘徊する町だった。
藍に連れられ内藤新宿に足踏み入れたその日、夜半、私達は噂の『鬼』と出会した。
が、『鬼』は、鬼でない『鬼』──即ち鬼を装ったヒトで、けれど、人の命を簡単に奪おうとする彼等を放っておくことは出来ぬと後を追った私達の前で、鬼でない『鬼』は、本当の鬼に変生した。
…………それが、私達が辿り着いた江戸の町の『始まり』だった。
その出来事に関わった折に知り合った──と言って良いのかどうか、私には判らないが──時諏佐百合と言う中年増の佳人から、「聞いてしまったら最後、後戻りは出来ぬ」と言い置かれた、江戸の町に関する話、鬼に関する話、それ等を聞かされ、その果て、有り体に言って良いなら、半ば巻き込まれるような形で、私と京梧は、新たに立ち上げられた幕府の隠密組織──龍閃組、と言う組織で、江戸の町を脅かす異形達を狩る任を与えられることになった。
私と京梧以外にも、己の持つ『力』の意を知るべく自ら一員となるのを望んだ藍と、円空と言う高野山の阿闍梨に龍閃組の一員となるべく遣わされた醍醐雄慶と言う彼が、時諏佐先生──私達に様々なことを教えてくれる方にもなったが故に、先生、と私は何時しか彼女を呼び始めた──を頭とする組の者となり。二、三日の後には、藍の親友で、弓の遣い手である桜井小鈴と言う彼女も加わった。
────そんな成り行きの全ては、人の声や想いが遠い故に、他人の声や言葉を拾えぬこと多い私を、蚊帳の外に置くようにしたまま決まってしまったことだった。
雄慶も、小鈴も、時諏佐先生も──と言うよりは、あの茶屋で目覚めてより後に私と知り合い、深く関わり始めた者全て、藍やお花のように、『声や想いが少しばかり私には遠い』程度で済む、それまでの私の周りには稀有な者達だったけれど。
それでも、彼等が何を語らっているのか、私にはさっぱり聞こえて来ないことも多くて、故に、この出来事の際だけでなく、以降もずっと、彼等が私に向かって何を話しているのか、どんな想いを向けて来ているのか判らず、秘かに困り果てている内に、皆の話は、大抵、纏まってしまっていた。
…………初めて江戸に足踏み入れたあの夜も、それ以降も、私とて、様々な成り行きに口を挟みたいと思うことはあったし、蚊帳の外に置かれたような格好のまま話を纏められてしまうのを情けなく感じたこともあったし、どう話が纏まったかも判らぬのに至極当然に同意を求められるのに、居た堪れぬような気持ちを味わったこともあったけれど。
私にはヒトでないモノの声が聴こえて、ヒトでないモノの想いが判って、故に、その分だけ人の声や想いが遠く、お前達が何を語らっていたのか判らないことがある、と仲間となった彼等に打ち明けるなど、私にはどうしても出来なかったから、判らぬ間に決まってしまったことを、私は唯、受け入れるしかなかった。
けれど、そんなことが起こる度、「ぼうっとしていて話を聞き逃した」とか、「他のことに気を取られていたから」とか、言い訳をしつつ、そろっと京梧の着物の袖を引けば、「お前は……」とブツブツ言いつつも、全ての成り行きを彼が語ってくれたから、不便はなかった。
……不便処か。
私が、どうにも仲間達の話に付いていけない、と京梧は逸早く悟り、何や彼や、まるで、口うるさく世話好きな兄の如く私の面倒を見てくれるようになったから、仲間達に置いて行かれるに似た寂しい気持ちを味わうことがあっても、私は満足だった。
その分を、京梧が全て埋めてくれたから。
尤も。
私が時折抱えていた寂しい気持ちを京梧が埋めてくれなかったとしても、私にも確かに届く声と想いを持っている彼が傍にいてさえくれれば、私は満足だったのかも知れないが。
…………そんな風に、龍閃組の一人として、龍泉寺を『家』とし、江戸での──新宿での日々を送り始めた私は、もしかすると、私自身が思っていたよりも遥かに、幸せな時を過ごしていたのかも知れない。
仲間達は皆、心優しく暖かかったし、知り合った者達もそうであったし、時諏佐先生が教えてくれる手習いは楽しかった。
京梧に至っては、例えば、道行く最中も『皆』の声ばかりを聴いている所為で直ぐに迷い子になってしまう私の手首を引きつつ町を歩く、と言う風に、私にはどうしたら良いのか判らないこと、どうしても私には出来ないことの世話を、本当に、一から十まで焼いてくれた。
そんな彼は、庇護が過ぎるにも程がある、せっかちで出しゃばりな兄のようでもあったけれど。
京梧が傍らにいてくれること、仲間達、教えられること、過ごす日々、その全てが、私に幸を齎した。
その全て、私が生まれて初めて手に入れたものだった。
……故に。
『あの夜』の鬼でない『鬼』──鬼道衆と言う名の一団達が、江戸を脅かそうと引き起こす、数々の事件に立ち向かっても。
そんな事件の裏に見え隠れする、哀しく痛ましいばかりの出来事と向き合っても。
あの頃、私は。
幸せ、だったのだと思う。