──慶応二年 夏──
──龍斗──
振り返れば、幸せ、の一言でしか言い表せぬだろうあの日々が、少しばかり続いた頃。
満開だった桜の花が散り逝って、春が遠退き始め、初夏の足音が聞こえて来た頃。
江戸に辿り着いてよりの私を取り巻いていてくれた、穏やかなだけの幸せが、少しばかり変わった。
あの頃の私の、穏やかなだけの幸せが変わり始める切っ掛けを齎したのは、京梧だった。
────或る日のことだ。
京梧が、
「吉原に行かないか? 前々から行ってみたいと思ってたんだ」
と私に誘いを掛けてきた。
だから私は、京梧がどうしても行きたいと言うなら、そして私に付き合えと言うなら、と二つ返事で誘いに乗った。
…………江戸に来て初めて、世俗に疎過ぎる、と思い知った私でも、吉原がどう言う所なのかくらいは弁えていた。
女人が『春』をひさぐ場所なのだ、と言うことくらいは。
だが。
信濃の山奥で育ったが為、それまでの私は、『そういう世俗』に全く触れずに生きて来たし、私に、男女──否、雄と雌、と言った方が正しいかも知れない──の交わりを教えてくれたのは、人でなく『皆』だったから、私にとって、吉原は、摩訶不思議なだけの場所だった。
要するに、何を目当てに男達が足繁く吉原に通うのか、私にはピンと来なかったのだ。
……何故ならば。
ヒトならざるが故に、『皆』にとって、男女が交わると言うことは、即ち子を生す為の行い以外に有り得ず、そんな『皆』の教えしか知らなかった当時の私にとっても、子を生す以外の男女の交わりは有り得なかったから。
春をひさぐ、と言う行いが、頭では解っても、その意味や、男達がそれを遊女に求める本当の目当てが、私には解らなかった。
故に、京梧が「吉原に行きたい」と言うから、と付き合いつつも、内心で私は、京梧は子供が欲しいのだろうか、だから吉原に行きたいと言い出したのだろうか、と思っていた。
妻を娶らぬまま子だけを欲し、故に吉原に行くと言うなら、何故、私に誘いを掛けたのだろう? とか。
子を生す為の行いは、男女一対のみで行うことではないのだろうか、とか。
今にして思えば、顔から火が出る程恥ずかしい思い違い、としか言えぬことばかりを考えつつ、それでも私は。
出逢ってより一月と僅かの時を過ごしただけで、傍らに在るのみで幸せを感じられる者となっていた、出来る限り傍らにいたい、と欲する京梧と二人、初夏の或る日、吉原の大門を潜った。
何故、京梧の傍らに在りたいと私は欲するのか、その理由を思い至らぬままに。
それを京梧が誰に貰ったのか、私は能く憶えていない『吉原細見』片手に、傍目にも浮かれているのが判る様の彼と二人訪れたあの花街で、私達は、萩原屋、と言う見世
大門から真っ直ぐ伸びる仲の町──吉原の目抜き通りに面してずらりと並ぶ引手茶屋の直ぐ裏手の見世は、江戸中に名を馳せる、とびきりの花魁達を抱えている郭ばかりで、そんな花魁達に見合うだけ懐具合も暖かくないと、見世の敷居を跨ぐことすら憚れるけれど、萩原屋は、仲の町と羅生門河岸を繋ぐ通りの一つの、角町
そんな、有り体に言ってしまえば吉原の中でも場末に近い方の見世で、私達の相手をしてくれたのは、お葉、と言う遊女だった。
お葉は、色白で線の細い、整った顔立ちの遊女で、京梧は、彼女を一目で気に入った様子を見せた。
その段になっても、未だ私は、「こういう女人に、子を産んで欲しいと京梧は思っているのだろうか」などと考えていたし、吉原の仕来
故に、その夜を、私は京梧と二人、お葉の見事な腕前の三味線と唄を肴に過ごすことになって、『皆』の声を遠く押しやりつつ何とか拾った彼女の身の上話や、吉原と言う所への彼女の想いに様々な意味で様々思わされつつも。
心の片隅で、ずっと、何を考えているのか判らなくなってしまった京梧のことばかりを悩んでいた。
子が欲しくて吉原に行きたい、と言い出したのだろうに、どうして私を伴ったのか、気に入った遊女を見付けたのに、どうして私を帰さなかったのか、と。
…………本当に本当に、何処までも今にして思えば、どうしようもない思い違いをしたまま、私は何を悩んでいたのだろう、と笑うことも出来るけれども、あの夜の私にしてみれば、それ等のことは、不思議で不思議でならなくて……、でも。
何故か、心の何処かで私は、京梧の吉原遊びが『その程度』で済んだのを、安堵と受け止めていた。
それから、更に数日が過ぎ。
吉原に、死んだ遊女の霊が出て、祟りを引き起こしている、との騒ぎに関わった際、私達は、馴染みを持ったお葉が逝ったことを知った。
否、私達をもてなしてくれたあの夜、お葉は既に、この世の者でなかったと知った。
……気に入りになったばかりの彼女の身の上に思うことがあったか、然もなくば、生来情が深い所為か、彼女の死を知った京梧は、酷く何かを思わされたようだった。
彼女の死を巡って、桔梗と言う、鬼道衆の女とやり合うことになってしまったのもいけなかったのだろう、騒ぎに片を付けて後、京梧の口は重くなって、吉原からの帰り道、すっかり癖になってしまったのか、迷子にならぬように私の手首を掴んで歩きながらも、彼は多くを語らず。
藍達も、そんな彼に声を掛けられぬ風だった。
龍泉寺に帰り着いてよりは、門を潜った途端、「もう大丈夫だろう?」と言わんばかりに、彼は掴んでいた私の手首を離し、さっさと中へ入り、何処
そのような彼の姿に、
「……放っときなよ。それがいいよ」
「そうね……。そっとしておくのが、私もいいと思うわ」
と小鈴や藍は言ったけれど、彼女達や雄慶のように、京梧へ、『気付かぬ振りをする優しさ』を向けることは、私には出来ず。
私は、唯、夜空を見上げて一人酒を呑み続ける京梧に寄って、彼が杯を傾けること止めるまで、黙って傍にいた。
『気付かぬ振りをする優しさ』を向けることは出来ぬのに、彼に、何と声掛けたら良いのかも解らなかったから。
傍らに黙って添うことしか、私には成せなかった。
…………もしも、あの頃の私が、もう少し、人のことを解れる『ヒト』だったら、もっと遥かに京梧の為になることが出来たのだろうし、気の利いた言葉の一つも掛けられたのだろうと思う。
でも、あの頃の私には、それは叶わなくて。
だから……、だから、唯、私は。
緋勇の家で過ごしていた頃、私に懐いていた獣達が逝く度、無言で亡骸に添ったように、何も言わず、一晩、京梧の傍らに添っていた。