──京梧──

何処までも俺の柄じゃねぇ『平穏』が、俺の周りを取り巻いていた頃。

公儀隠密、ってな裏の顔を持ちつつ過ごす、江戸の町での暮らしに慣れてきた、初夏の頃。

良いことではあったんだろうが、長閑のどかで退屈と感じ始めていた『平穏』から、一歩み出る出来事があった。

長閑で退屈だが、良いことではあったんだろう平穏、それから俺が一歩食み出ちまう切っ掛けは、俺自身が言い出し繰り出した、吉原遊びに端があった。

────花のお江戸に出て来た男なら、吉原は一度は行かなけりゃならねぇ場所だ、ってのが俺の言い分だった。

そうでなきゃ、男が廃る、と。

だから俺は、

「吉原に行かないか? 前々から行ってみたいと思ってたんだ」

と龍斗を誘った。

…………粋だけに生きるのが信条みてぇな江戸っ子連中から見れば、あの頃の、僅か一月と少しを江戸で過ごしただけの、それまでは浪々ばかりを繰り返してた俺や、世俗に疎過ぎる龍斗なんざ、無粋の極みな田舎者で、田舎者のご多分に漏れず、吉原のことも、吉原の仕来しきたりも能くは知らなかったが、行きゃあ何とかなるだろうと、そう思ってた。

そりゃ、遊女と二人、褥でしっぽり朝まで……、ってのがあの時の俺の本音だったが、遊女おんなと『馴染み』にならなけりゃ──要するにそれだけ通わなきゃ、『桃源郷』にはお目に掛かれねぇ、との話は俺とて聞き齧っていたし、そこまで俺の懐は豊かじゃなかったから、深川辺りで芸者遊びをするような感じで、ちょいとでも遊べりゃいいかと、龍斗にも声を掛けた。

例え、芸者遊びの真似事のつもりで、だったとしても、その辺の岡場所に行くってんなら兎も角、男二人で吉原ってのは粋な話じゃなかったんだろうが、その頃の俺は、龍斗の世話を焼いて歩くのが使命の一つみたいに感じちまってて、どうにも世俗に疎過ぎる、年がら年中ボーーーーー……っとしてるあいつにも、ちったあ花街や色街を教えてやった方がいいのかも知れねぇ、なんてことも考えたから。

……ま、それでも、断られたら断られたで、『大人の夜』を楽しみゃいいって『下心』はしっかりあって、でも。

龍斗は、俺の誘いを断らなかった。

寧ろ、二つ返事だった。

だが、吉原って所の本質をしっかり解って誘いに乗ったとは、どうしても俺には思えなかった。

何方かと言やぁ、兄貴の悪さに付き合う幼い弟ってな風情で後をくっ付いて来て……、しょうがなし、俺は、少しばかりあった『下心』を、そこで綺麗さっぱり捨てて、龍斗を連れて吉原の大門を潜った。

以前、杏花や円空のジジイと同じ長屋に住んでる、支奴洒門って絡繰り師に譲って貰った『吉原細見』片手に、少しばかり浮かれつつあの花街の中を進んだ俺は、萩原屋って見世に目を付けた。

俺達の懐具合に合ってる見世のようだったから。

角町の、羅生門河岸に近い張見世だった萩原屋の格子は、小見世なのを示す小格子で、ってことは、二朱程度の銭で遊べる遊女が大半ってことだから、その中でも格子側に座ってる遊女を一人一人眺めて──何故って、格子に近い側に座ってる遊女程、遊び金が安いから──、けれど、この女なら、と思える相手はいなくて。

別の見世を覗くかと、小格子の前を離れようとした時、見世の上がり口近くに突っ立ってる遊女が俺の目に留まった。

色白で、線が細くて、整った顔立ちの、三味線を小脇に抱えてる女だった。

何処となく、憂いみたいなもんも漂わせてた。

……もう少し、こう……何てぇか、ぱりっとした風情の女の方が俺の好みには合ったが、何となく、漂わせる憂いと抱える三味線が気になって声を掛けてみたら、女は、萩原屋の遊女だと知れた。

但し、部屋持ちではなく、故に遊び金もそれなり、とも知れたから、俺は、お葉と言う名のその女と共に、萩原屋の敷居を跨いだ。

────見世の小さな座敷に上がって、酒でも、となったら、そこまでは黙って俺にくっ付いて来ていた龍斗が、急に腰を上げようとした。

どうした? と訊けば、帰る、と言いやがった。

だから、ひょっとして、と。

一応は、吉原がどんな所なのかこいつにも解ってて、俺に遠慮をしてるのか? と思い。わざわざお前を誘って吉原に来といて、一人どうこう、なんてつもりはないと奴を引き止め、お葉ちゃんが聞かせてくれる見事な腕前の三味線と小唄を肴に、三人で、色んな話をした。

…………お前が帰る必要はねぇよ、と引き止めたら、龍斗の奴は、大人しく座り直しはしたものの、以降、随分と不思議そうな顔を拵え続けた。

いや、二つ返事で吉原遊びに付き合うと言った時からずっと、あいつは、不思議そうな顔を崩さなかった。

その時の俺には、何がそんなに不思議なのか、何に対して不思議に思っているのか、さっぱり見当が付かず、幾度か、「何でそんな顔をしている?」と問おうともしたが、話がお葉ちゃんの身の上に及んだ辺りから、龍斗は、不思議そうなツラしつつも、懸命にお葉ちゃんの話に耳傾けていたから、まあ、いいか、と。

『些細な訝しみ』を俺は流し、その夜を終えて。

それから、更に数日が過ぎた頃。

俺達は──と言うか、龍閃組は、吉原に出る死んだ遊女の霊と、その遊女の霊が引き起こしてる祟り騒ぎに関わることになって。向かった吉原で、お葉ちゃんが逝っちまったことを知った。

……いや、俺がお葉ちゃんに目を留めたあの夜、既にお葉ちゃんは逝っちまってたと知った。

…………それは、唯々、俺の胸を詰まらせた。

お葉ちゃんの死を知らされ、直ぐさま、その死を巡って、桔梗って名の、鬼道衆の一人だった女とやり合うことになったのも、ひたすら、俺の胸を詰まらせた。

何時の間にやら本当に俺の癖になっちまったのか、吉原からの帰り道、放っとけば迷子になっちまう龍斗の手首を掴んで歩きながらも、何も語る気にはなれぬ程に。

────吉原には、ほいほいと遊女を取っ替え引っ替え出来ねぇ、って決まり事がある。

それは、見世を替えりゃあ済むってな簡単な話じゃなくて、ひと度遊女と『馴染み』になれば、その遊女おんなと夫婦の真似事が出来る代わりに、『別れる』となりゃ、大騒ぎになる。

……それは、俺も知ってた。

だから、お葉ちゃんは、何時かには『そういう仲』になっても、と思える相手ではあった。

もっと簡単に言っちまえば、『気に入り』の遊女おんなではあった。

だが俺は、お葉ちゃんと真に『そういう仲』になりたかった訳ではなく。

薄情なのかも知れねぇが、お葉ちゃんが逝っちまったことそのものに、胸詰まらせた訳でもなかった。

男にとっては桃源郷でも、女にとっては苦界でしかない、と言われる吉原で、それでも懸命に生き、最期の最期まであの町を愛おしんだ者の魂を、復讐に駆り立てようとした鬼道衆のやり口が、どうしても許せなくて。

許せない、と思う裏側で、誰よりも、あの町が『苦界』であるのを解ってた、あの場の誰よりも吉原の遊女おんなを解ってた、桔梗って女が、浮かばれねぇ遊女おんな達の為に復讐ってやり方しか選べないのが、恨むことしか出来ないのが、胸に痛過ぎて。

俺は、俺らしくもなく、口噤んだまま龍泉寺に戻り、美里達が送ってくる眼差しに知らぬ振りして、裏の縁側で、一人酒を舐め始めた。

何とか俺に声を掛けようとして、けれど掛ける言葉を探し倦ねて、どうしていいか解らぬまま、無言で俺の傍らに添った龍斗の相手もせずに。