──龍斗──

内藤新宿の町が静まり、夜が更けて、丑三つ時が過ぎても、京梧は、私など居ぬ者と扱っている風に、黙々と酒を呑み続けた。

そんな彼の傍らで、両膝を抱え込み、私は、杯の中に揺れる、澄んだ色の酒精とだけ向き合う京梧の横顔を眺めつつ、一人考え込んだ。

何故、私は、あの夜──お葉に初めて会った夜、彼女が、もうこの世の者でないことに気付かなかったのだろう、と。

……私には、『皆』の──ヒトでないモノの声が聴こえる。

ヒトでないモノの姿が視える。

故に私には、所謂、幽霊、と言うモノも視える。

目の前に在る者が、ヒトなのか、霊魂なのか、一目で判る。

なのに、あの夜の私には、お葉が、この世に彷徨い出た魂だったと見抜けなかった。

その訳を、私は一人考えて……、沈んだ様子の京梧の横顔を眺め続けながら考え続けて、ふと。

あの夜、私は、『本当にお葉を見ていたのだろうか』、との問いを胸に浮かべた。

…………そうして、やがて。

──確かに、私はあの夜、どうして京梧は私を伴い吉原へ行ったのか、気に入りの遊女を見付けても尚、私を引き止めたのは何故か、ひたすら悩んでいたが、それだけで、お葉が魂だけの存在だったことに気付かなかったとは思えない。

と言うことは。

ひょっとすると私は、萩原屋の小格子前で京梧が彼女に声掛けた刹那から、あの見世の座敷を辞すまで、お葉を『見ていなかった』、それが、このことの理由わけのではないか。

……そんな答えに行き当たった。

私は、ずっと。

あの夜の間中、ずっと。

京梧唯一人だけを見ていたのではないだろうか。

お葉が彷徨い出た魂なのにも気付かぬ程に、京梧、唯一人だけを、…………と。

──そのような答えに行き当たった私の胸には。

…………では何故、私はそんなにも、京梧一人だけを見ていたのだろう。

どうして、そんなにも、京梧一人だけに想いを傾けていたのだろう。

……との、次なる問いが湧いた。

だから私は、その次なる問いを又もや考えて、考え続けて、暫しの時が流れた頃、『答えらしきもの』を得た。

叶う限り京梧の傍らにいたい、その想いのみで、吉原に行こう、との誘いに二つ返事で頷いて、同道までしたけれど。

実の処、私は、京梧が遊女と交わろうとするのを、嫌だと思っていたのではないだろうか。

…………との、『答えらしきもの』を。

────結局の処、あの騒ぎが一件落着しても、京梧が何の為に吉原に行こうと言い出したのか、私には能く判らないままだった。

京梧と初めて吉原へ赴いたあの夜も、一人、酒とだけ向き合い続ける京梧の傍らに添っていたその夜も、私は未だ、彼は子が生したいが為、吉原に行きたがったのではないか、との思い違いをしたままだった。

…………生き物である以上、人とて、男は女と結ばれ、女は男と結ばれ、子を生したいと思うのは、当然のこと。

全ての生き物は、そう在る。

だから、この出来事から暫くが経った頃に、漸く、どうしようもない勘違いだったと思い知った、当時の私の思い込み──京梧は、子が生したいから吉原へ、との思い込み、それが、生き物としては至極当たり前の理に基づく考えだったことには違いなく、その『当たり前』に、当時の私が口を挟む余地など何処にも無かった筈なのに。

何も言えぬ処か、一人思い煩う余地さえも、無かったのに。

……なのに、吉原を初めて訪れたあの夜の私は。

吉原の遊女達を。あの町の女人を。…………お葉、を。

彼と抱き合うかも知れなかった、彼女達を。

どうしても、どうしても、見ていたくなくて。

京梧が一目で気に入った様子を見せた、お葉を、見ていたくなくて。

ヒト以外のモノの声ばかりを聴き、ヒト以外のモノの想いばかりを受け取り、故に人が胡乱な私にも、きちんと届く声を持った、きちんと届く想いを持った、蓬莱寺京梧と言う男に、抱き合いたいと望む女達ではなく私を見て欲しくて、私に声を、想いを届けて欲しくて、だから、だから…………────

────……だが。

一人考え抜いた私が出した、このような『答えらしきもの』は、どうしても、『答えらしきもの』の域を出なかった。

何故、彼と抱き合うかも知れない女人達を見たくないと思ったのか、何故、京梧に私だけを見て欲しいと思ったのか、その時は、解らぬままだったから。

「…………なあ、龍斗」

そんな風に、私が、一人悶々と考え続け、悩み続けていた時。

そろそろ夜が明ける、と言う頃。

不意に、見詰め続けていた杯の中身より眼差しを外し、私を見遣りながら、京梧が声掛けてきた。

「何だ?」

声掛けられた刹那、私は、『答えらしきもの』のことで、半ば思い詰めるようにしていたので、唐突だった彼の声に、僅か心の臓が跳ねたのを感じつつも、気のない風を装って、抑揚なく応えた。

「ありがとよ」

「……? 何が?」

「付き合ってくれて」

「別に、そういう訳では。唯、今夜のことで、酷く何かを思わされた様子だったお前を、一人にしておくのは、と思っただけだ」

「それを、付き合うってんだよ、世の中じゃ。……だから、ありがとよ」

「……どう致しまして、と言った方が良いのだろうか」

「好きにしな」

小さく受け答えれば、京梧が徐に礼を告げてきたから、何も言えぬまま、唯、傍に添っただけの私の行いも、無駄ではなかったのだろうかと、私は少しばかり、嬉しく感じたが。

冗談でも何でもなく、本当に判らなかったから洩らした、「どう致しましてと言った方が良いか」との私の呟きを拾った京梧が、声立てて笑いながら肩を抱いてきたので、

「もう、夜が明ける。今夜のことを振り切れたなら、少し寝たらどうなのだ? 私も、少し休む」

思わず私は、伸びてきた腕を擦り抜け立ち上がり、彼に背を向けその場を去った。

半ば逃げるように京梧の傍らを離れた私が向かった先は、龍泉寺境内の片隅にある、境内の中で最も古い、が、春の盛りの頃、一番見事な花を咲かせていた桜の木の根元だった。

そこに踞るように座って、何となし、私は、桜の古木に語り掛けた。

京梧には、もう幾度も、髪に、頬に、腕に、手に、と触れられてきたのに。

先程のように肩を抱かれるのとて、別段珍しいことではないのに。

何故、私は逃げるように? ……と。

今宵の私の考えることは、何も彼も、どうかしている。……とも。

………………すれば。

私の語りに耳傾けてくれた、幾星霜を越えてきた桜の古木は。暫し、何かを悩み、躊躇った風な沈黙を続けた後。

『……それは。その想いは。人の世では、恋と言うのですよ』

と、静かに告げた。

私の中の京梧への想いは、恋、と言うのだ、と。