──京梧──
水無月が、終わり掛けていた。
気が付きゃ、火盗改の連中や容保の親父達とやり合ったあの夜から、半月の上、経ってた。
龍閃組の看板を背負ってからこっち、どうしようもなく忙しくて慌ただしい毎日ばかりが続いてやがってたってのに、俺達は半月の間、肩透かしばかりを喰らい続けた。
あの夜、円空のジジイが容保の親父から引っ剥がした、黒繩翁の野郎が言い残した不吉な言葉の意を何とかして探ろうと、俺達は、それこそ身を粉にするように江戸の町中を彷徨い続けたが、手掛かりなんぞ、何処にもなく。
黒繩翁を見掛けた奴でも、と尋ね歩いても、全て無駄足に終わった。
あの言葉の意を探るのも、あの野郎を探すのも、まるで、雲を掴むようなことに似ていた。
何でなのかは判らなかったが、鬼道衆の連中まで大人しくなっちまって、それまで俺達の周りで起こり続けていた騒ぎも怪異もすっかり鎮まり、仲間達の誰もが、「あの晩のことは悪い夢だったんじゃないか」と思い始めてた。
言うまでもなく、俺も。
龍斗でさえも。
………………それまでの俺達は多分、忙しさが過ぎてたんだろうと思う。
『江戸の町の始まり』からこっち、俺達が、騒ぎや怪異に出会さねぇ日なんざ、数える程しかなかった。
だから、これでもか、と与えられ続ける忙しさに、与えられ続ける『何か』に、知らぬ内に慣れちまってて、僅か半月の平穏でさえ、長過ぎる、と感じて落ち着かなかったんだろう。
本来なら当たり前の筈の、『何も起こらない』ってそれが、信じられないくらい。
その所為で、逆に俺達は、俺達にとっては『長過ぎた平穏』に勢い溺れちまって、このまま放っといても、何事もなかったように、この平穏は続き続けるんじゃねぇか、って思い始めてた。
あの悪霊みたいな野郎の話が出る度、見付けたら、問答無用で叩き斬るだけ、と言いながらも俺は、
「あの晩の俺達ゃ、夢でも見てたのか?」
と、声に出すようになっていて。
その度、
「そんな筈は無かろう?」
と、苦笑を浮かべつつの龍斗に嗜められたが、そう言う龍斗も、このまま終わる筈が無いと、手前に言い聞かせてる風だった。
────それでも、平穏は続いた。
ひたすらに続いた。
嫌気が差す程に。
……僅か半月のことだ、単なる気の弛みだ、慢心だ、と言われれば、返す言葉はない。
けれど、それまでの三月と少しを、駆け抜けるように、生き急ぐように過ごして来た俺達にとっちゃ、ひたすらに続く平穏は、仮初めだと判っていても辛いものだった。
探しても、探っても、毛筋程の手掛かりすら掴めねぇ、雲よりも質の悪い相手や話を探し続けながら、これは嵐の前の静けさだ、一寸先には江戸やこの国を覆い尽くす闇が待ってるんだと自分達に言い聞かせ、気を張り続けるのは、俺達にだって至難だった。
だから。
言い訳に聞こえるのかも知れねぇが……、だから、仲間達と寄ると触ると、あの野郎やあの野郎の言葉のことを語りつつも、段々と俺の頭の中は、違うことで占められ始めた。
違うこと──龍斗のことに。
……何時の頃からだったか、もう憶えちゃいねぇが、その頃には、俺はあいつのことを、龍斗、じゃなくって、ひーちゃん、と呼ぶようになってた。
そう呼ぶようになった時期は思い出せねぇが、切っ掛けは憶えてる。
何の折だったか、仲間内での通り名だったり、渾名だったりってのが能く判らないと、あいつが言い出したことがあって、だってなら判らせてやろうじゃねぇかと、からかい半分で、わざと、餓鬼が付けるそれみたいに、ひーちゃん、と呼んだのが始まりだった筈だ。
雄慶なんかは、同い年の男子を捕まえて、とか何とか、頭の堅いことを言ってやがったが、龍斗──ひーちゃん自身は満更でもなさそうだったから、何時しかすっかり、俺はあいつを、ひーちゃん、と呼ぶようになって。
呼び方が変わったからって訳じゃねぇが、本当にほんの少しだけ、俺とひーちゃんは、それまで以上に共に過ごす時が長くなった。
ま、それまでだって、俺とあいつは、どっちかって言やぁ『べったり』だったから、共に過ごす時を、ほんの少しだけ以上に延ばすことなんざ無理に近くて、要するに、朝から晩まで引っ切り無しに顔付き合わせてる、ってな有様になって。
そうなっても、ひーちゃんは相変わらず、俺の傍にいるのも、俺に世話を焼かれるのも好んでたようだったし、ちょっかい出すのも止めなかったし。さぼり癖を出して、ちょろっとでも俺が姿を隠すと、あっと言う間に探し当ててみせた。
……そう、あいつは、俺を探すのが滅法上手かった。
何故かと不思議に思い、「何で俺のことだけは、そうも容易く探し当てられるんだ?」と訊いても、「目印があるから」と笑ってはぐらかされちまったから、理由は兎も角って奴だが、あいつは、そんなこと『は』上手くて、これ以上はねぇって処まで共にいたってのに、飽きもせず俺に懐いて。
………………その所為だろう。
朝が来ても夜が来ても、そんな風なあいつのツラが、何時でも直ぐそこにあったからだろう。
気を抜いてはいけない、黒繩翁が言っていた、半年の後、江戸の町を、この国を覆い尽くす闇が訪れる、との意を何としてでも掴まなくては、と俺や仲間達を諭す役目を果たしながらも、あいつが、何か別のことに気を取られてるのに俺は気付けた。
あいつが秘かに気を取られてる何かは、どうも、俺絡みらしい、ってことにも。
故に、境の港に着いた辺りからこっち、俺の中で鳴り潜めてた『想い』に、俺は、「ちょいと何処かで道を間違えたんじゃねぇか?」ってな火を点けちまった。
──只でさえ、ぼーーーーーー……っとしてやがるのに、何をしてても、俺の傍にいても、あいつは何処か上の空な風情を見せて、かと思えば、俺の顔を、じー……、っと覗き込んだりもしたから、一日中見せ付けられる、あいつのそんな態度に、俺は或る日の或る時。
俺の傍にいて、俺のこと絡みの何かを考えてるような気配を見せやがるくせに、何時も以上に惚けながら、らしくもねぇ難しい顔して俺のツラ覗き込んでんじゃねぇ。俺の傍らにいるなら、俺のことを考えてんなら、何時ものように、春風みてぇに笑ってりゃいいんだ。…………と。
我知らず、ふう……っと思っちまった。
…………それは。
そんな考えは、明らかに、「ちょいと何処かで道を間違えたんじゃねぇか?」と言えるんだろう火が、俺の中に仄かに灯された証で。
初夏の頃には気付けなかった、『何故、あいつを俺の傍らに添わせておきたいと思ったのか、何故、俺自身をあいつの傍らに添わせたいと思ったのか』の答えを、一歩だけ、俺へと手繰り寄せることで。
もしやもすると、これは、大層困ったことになるんじゃねぇか、と思いながら迎えた、水無月の下旬。
俺は、ひーちゃんと雄慶の野郎と、例のことの手掛かり求めて江戸中を廻って疲れ果て、内藤新宿の何時もの蕎麦屋の暖簾を潜った。
蕎麦の味も、蕎麦屋の親父のツラも、俺達三人が話すことも何時も通りで、代わり映えしなかった。
けれど、何一つ代わり映えしねぇ、とのそれは、確かな安堵だった。
仮初めでしかないんだと、頭では判っている平穏が、何時までも何時までも続いてくような思い違いを起こさせる、安堵。
こんな毎日でも終わることなけりゃいい、こんな毎日だって満更じゃねぇ、と。
そんな風に思わせる…………──。
……でも。
仮初めは、何処までも仮初めだった。
所詮は幻でしかなかった。
蕎麦屋の帰り道、物の序でだと長屋に寄って、顔見せた円空のジジイに、胸騒ぎがする、良くないことが起こりそうな気がする、と言われ、半ば走りつつ龍泉寺に戻る道すがら。
俺達の行く手の空──何時しか茜色に染まり始めていた空には、暗雲が立ち籠め始めていた。