──龍斗──

俄に曇り始めた空を眼差しの片隅に留めながら、駆け戻った龍泉寺で私達を待っていたのは、劉と言う名の、清国からやって来た、仙術と氣の技でこの国の言葉さえも操ってみせた少年だった。

小猿を連れていた彼は、どう窺っても私達や江戸の町に仇なす者には見えず、ほっと安堵したのも束の間。

劉と私達が境内で起こしてしまった些少の騒ぎを聞き付け、藍や小鈴や時諏佐先生が、何事かと顔見せた時、どれだけ探せども、手掛かり一つ見付けること出来なかった黒繩翁が、何処からともなく現れた。

強い氣に引かれやって来てみれば……、と小声で洩らしたあの者は、川開きの夜、両国橋の袂で私達の前に立ち塞がり、何故か京梧に執着めいたものを見せた謎の剣士、神夷京士浪を伴っていた。

単に、鬼道衆の名を騙り、幕府や天下に混乱を齎そうと企んだ某藩の者達に雇われた浪人なのだろうと思っていたあの剣士は、黒繩翁の手の者だったのだと知り、京梧は声を荒げていたが。

神夷は、黒繩翁達の仲間になった覚えはない、と言い切り、面の半分を覆う仮面の中より京梧のみを見詰めつつ、自分を倒してみせろ、と異なことを言い出し。全てが黒繩翁の目論見通りではなかったが、やり合う、と言う意に於いては、あの者の目論み通り、京梧は神夷京士浪と、私達は黒繩翁の影と戦うことになった。

────正直に白状してしまえば。

私は、両国橋で戦ったあの時から、神夷京士浪と言う彼を、どうしても好ましく思えなかった。

京梧以外を意に介さず、用があるのはお前だけだと京梧に向かって言い切り、剣の道を極めることに関する問答を吹っ掛けながら、京梧とだけ剣を交えようとするあの者が、はっきり告げるなら、私は嫌いだった。

あの者の言葉が、あの者の剣が、何処か、私などには手も届かない遠い所へ、京梧を連れて行ってしまいそうな兆しを感ぜずにはいられなくて、だから。

私は、神夷京士浪が──否、彼の語る剣の道の理の話が、彼の振るう剣の技が、どうしても嫌だった。

けれど、誘い込まれた幻の竹林での戦いを私達が制し、京梧が、見事、神夷京士浪を討ち果たした直後。

彼は、御主こそが我が剣を継ぐ者、と言い残し、この世から『消えた』。

己が身と言う肉塊を捨て、修羅となってまで、己が剣を。先人達が、彼が、連綿と伝え続けて来た剣の技を。受け継ぐ者探していた彼は、全てを京梧に託して逝った。

……そんな生き様を見せた彼の、執念とも言える念願が叶ったのは、彼にしてみれば、喜ばしきことだったのだろう。

受け継ぐ者と見初められ、それ程までの剣の道への想いと技を託されたのは、京梧にしてみれば、誉れと言えるのかも知れぬのだろう。

でも私には、そんな彼の生き様を、雄慶が洩らしたように、哀れ、とは思えなかったし、彼の念願が叶ったことを、本望だったろう、とも思えなかったし、京梧がそこまで彼に見込まれたことを、誉れ、とも思えなかった。

────出逢って直ぐの頃から、京梧は、剣の道を己が全てとしているとしか思えぬことを、私に聞かせてくれていた。

だから私は、京梧が、天下無双の剣を手に、己が辿る剣の道の果ての頂に、確かに己の足で立ちたいと、そう誓っているのを知っていた。

天下無双の剣が持ちたい、剣の道の果ての頂を己が瞳に映したい、そう願っていることを。

そんな彼に神夷が託した想いと技は、私は手にすることない、見ること出来ない、辿り着くこと有り得ない、天下無双の剣と、剣の道の果ての頂に、京梧を『近付けてしまう』ように感じてならなくて。

私にも確かに届く声と想いを持った彼を、私だけを見て、私だけに声と想いを届けて欲しいと秘かに願い続けている彼を、私から引き剥がしてしまうような気がしてならなくて。

神夷が逝った刹那、私は、京梧の気配をこっそり窺いながら、俯くしか出来なかった。

「ワレノ影ヲ斃ストハ…………」

…………そんな風に、私が微か俯いていた間に、一度は消えた黒繩翁が、再び姿を現した。

影とは言え、己の力を写し取ったそれを、ヒトの身で斃してみせるとは、と訝しがりつつ。

と、あの者は、引かれた強い氣は、仙道士である劉の氣でなく、私の氣だった、と言いながらこちらへ向き直り、どれ程に強い氣を持とうとも、所詮はヒトだと、呪法らしき何かを操ろうとする素振りを見せたが、

「そのまま殺してしまっては簡単過ぎて詰まらぬ」

と、私を斃そうとした彼を制する声が、そこで掛かった。

……声の主は、九角天戒に瓜二つとも言える、真っ赤な髪をした男だった。

気配や氣の兆しさえ見せずに現れてみせた、柳生崇高と名乗った男は、見下すように私達を一瞥しながら、この成り行きの全ては自分が仕組んだことだ、と高らかに嗤いつつ打ち明け始めた。

龍閃組と鬼道衆が対立するように仕向けたのは、己だ、と。

人が鬼に変生したのも、己が技だ、と。

…………この日の少し前より私が感じていた『奇妙さ』の、『真の答え』だった彼の白状に、私達は憤り、が、それでも彼は歪んだ嗤いを浮かべ続けながら、この世の全てを恨んでいることを、ヒトと言う愚かなモノをこの世から消し去ること望んでいるのを、私達に語り聞かせ。

世に、八大地獄を生んでみせる、と言い切った。

希望がある限り、誰もが幸せになれる何時かの世を望む者がいる限り……、と訴える藍や時諏佐先生の言葉に耳も貸さず。

そのようなお前達の希望など、今、潰える、とも。

──何故、彼がこの世を、ヒトを、そうまで恨むようになったのか、何故、八大地獄などに焦がれるのか、それを、その時の私達には知る由もなかったが、到底許せる筈は無く、怖気立つような氣を迸らせている柳生崇高に、私達は挑もうとした。

だが、その時。

私の頭の片隅に、女人の声が響いた。

『戦っては駄目……』

との声が。

……声に、私は覚えがあった。

そう、結局、もう一度会いたい、との願いを叶えられず終いだった、比良坂の声だった。

────っっ! ……あぁぁぁぁっ……」

「ああっ!」

「時諏佐先生!」

「百合ちゃんっっ!」

「先生ーーーっ!」

その、突如、私の中のみに響いた比良坂の声と言葉に、ほんの瞬き程の瞬、私が気を取られた隙に。

お前達の希望など、今、潰える、と言って退けた柳生崇高は、腰の刀に手を掛け、霞むように疾く抜き去った白刃の一閃の下、時諏佐先生に斬り付た。

「人の命など儚いものよ。そして、希望など、死んでしまえば只の幻よ」

……そう、何処までも高らかに嗤いながら、あの男は。

「藍殿! 治癒の技を……っ!」

「えっ、ええ────。……きゃあああああっ!」

雄慶の鋭い声に我を取り戻し、凶刃に倒れた時諏佐先生を救おうと、倒れ伏した先生の傍らに駆け寄った藍も。

「藍ーーーーっ! ──きゃーーーーーーーっ!!」

大切な親友を斬られ、叫び声を上げた小鈴も。

「お前達には、希望も、明日と言う日もない。お前達の役目は終わったのだ。役目を終えた魂は、無に帰す宿命──

嗤いを浮かべたまま、何の躊躇いも見せず、刃を翻したあの男に。