──慶応二年 再び 〜春〜──

──龍斗──

艶のある声に、私は起こされた。

それは、大き過ぎず、小さ過ぎず、常ならば、決して私には届かぬ『ヒトの声』なのに、何故か声は確かに届いて、私は眠りより目覚め、閉じていた瞼を開いた。

辺りを見回してみれば、そこは、随分と古びた山小屋であると知れた。

刻は、暮れ八つ程のようだった。

肌に触れる風の具合より、春であることも知れた。

己が今在る場所、刻、それは判ったが、どうしてここにいるのか、ここで何をしているのか、さっぱり私には判らなくて、戸惑いながら、私を起こした声の主を見た。

「お目覚めかい? 随分と、ぐっすり眠ってたものだねぇ。まあ、外は土砂降りだ。寝る以外、やることもないだろうけどさ」

私を起こした声の主は、妖艶……と例えるのが良いのだろう女人だった。

「そこ、座ってもいいかい?」

女人は、そう言って私の傍らに腰下ろし、己が名を、桔梗、と名乗った。

桔梗なるその者と、私は以前何処かで巡り会っているような気がして、憶えを辿ったが、どうしても思い出せず。今度は私は、どうしてこの山小屋で寝ていたのか、それを思い出そうとした。

……が、どれだけ憶えを辿っても、何を思い出してみても、慶応元年の秋の終わり、父に呼ばれ、信濃の山奥にある私の家の、その又片隅にある古い道場に向かった、と言う処までしか私には判らず、唯々、首を捻るしかなかった。

────私が内心で酷く戸惑っている間に、桔梗は、私に声掛けたように、雨宿りの為にだろう、山小屋に居合わせた残りの者達に声を掛けて、囲炉裏端に集まったその者達と話をし始めた。

私と桔梗以外は、山師のような男と、若い女人だった。

『皆』──ヒト以外の全てのモノの声ばかりが聴こえる所為で、そのようなモノの想いばかりが届く所為で、男と若い女人の語ることは、少しも私の耳に入らず、そこで、はた、と。

何故、桔梗の声だけは、『少しばかり遠い』程度で済んでいるのだろう? と、私は再び首を捻った。

真に稀有な相手に巡り会ったのに、その時まで気付かなかったことも不思議に思った。

何よりも、桔梗の声が『少しばかり遠い』で済んでいるのを、驚きと捉えていないことが、私自身のことなのに、不思議で仕方無かった。

……やはり、どうしても思い出せぬだけで、以前に私は、この桔梗なる者に会ったことがあるのだろうか。

──この不思議の理由わけを、私は一度はそう考えたが、そうではないと、私の中の『何か』が答えた。

そして。

以前に、桔梗に会ったことはあるかも知れない。けれど、私が桔梗の声に驚きを覚えぬのは、やはり以前、もっと大勢、『少しばかり遠い』程度で済む声と想いの持ち主達に、巡り会ったことがあるからだ、と私の中の『何か』の答えは続いた。

…………私は、桔梗のような者達を、大勢知っている。

『少しばかり遠い』程度で済む声と想いの持ち主達を。

否、それだけでなく。

『皆』の声も想いも無きが如くにしてみせる、確かに私にもはっきりと届く、声と想いの持ち主を、私は知っている。

私はそのような者に、何処かで巡り逢っている……と、私の中の『何か』は。

だけれども、知っている筈の大勢の者達を、確かに私にもきちんと届く声と想いの持ち主を、私はどうしても思い出すこと叶わなかった。

「鬼、ねぇ……」

──そうやって、私が悩んでいる間にも、桔梗と男と若い女人のやり取りは続いていた。

その山小屋には、もう一人、立派な体をした僧侶がいたが、彼は誰に声掛けられてもひたすらに眠り続けていて、どうにも、その背中に懐かしさを感じて仕方無かった私は、桔梗達の話を聞く振りしつつ、何とか僧侶を起こそうとしたが、それは徒労に終わり、彼を話に引き込むのを疾っくに諦めてしまった桔梗達は、何時しか、この辺りに潜んでいると言う、鬼の話を始めたようだった。

専ら、鬼──否、鬼の振りした、徳川幕府に仇なす者達の話をしているのは、山師のような男らしかったが、彼の声はさっぱり私には届かず、彼に受け答える桔梗の声より何とか私は話を察して、共に『鬼』の住処を探りに……、と言い出した風な男に、曖昧な頷きを返した。

と、何を思ったのか桔梗は、真の鬼の話を始め、誰かがここを訪ねて来たようだ、自分達のように道に迷った者かも知れない、と若い女人が席を立った隙に、何や彼やと捲し立て、私を外に連れ出した。

「……御免よ」

乞われるまま桔梗の後に従い、土砂降りの雨の表に出て、漸く私は、嵌められたことに気付いた。

彼女は、男が話していた──らしい──、この深い山中に棲む『鬼でない鬼』の縁者らしく、放っておけば己達の住処を探り出すとしか思えなかった私やあの男を、始末してしまう覚悟だったようで、山氣で創り上げた──と私は後で知った──鬼達をけしかけてきた。

──対峙させられた鬼は、私にとっては倒すに易い相手でしかなかった。

三匹程現れたが、大した手間も掛からなかった。

と、そこに、私が容易く鬼達を倒したのに驚いたのか、桔梗達『鬼』の頭目であると言う、紅蓮色した髪の男が現れた。

男は、九角天戒と名乗った。

……天戒も、桔梗と同じく『少しばかり遠い』声と想いの持ち主で、何処までも彼女と同じく、私は何処かで天戒に会ったことがあるような心地を覚えた。

だがやはり、どうしても『昔』を私は思い出せず、私をこの場で殺してしまうか、それとも仲間に引き込むか、との相談を始めた天戒と桔梗のやり取りを、ぼんやり……、と聞くに任せた。

そうこうする内、二人は、取り敢えず己達の村に私を連れ帰る、と決めたようで、私は天戒に、共に来るか? と問われた。

ここで否と答えれば、どうあっても彼等は私を殺そうとするのだろうから、頷く以外に他ないだろうと、私は大人しく従った。

…………それより暫し、彼等に従いつつ山道を縫うように歩いた私が連れて行かれた先は、鬼哭村、と言う所だった。

訳ありの者、幕府に惨い目に遭わされた者、幕府に復讐を誓う者、そんな者達が隠れ住んでいる、と教えられた村。

天戒達、鬼道衆、と名乗る『鬼』達の村。

────鬼道衆の頭目であり、鬼哭村の村長むらおさでもある天戒は、御館様と呼ばれ、村人達に慕われていた。

そんな彼も、寄り添うように彼に付き従う桔梗も、村で会った、やはり何処か覚えがあった風祭澳継と言う少年も、『悪い者』達でないのは、私にも直ぐに解った。

彼等は、優しくて、哀しい者達なのだ、と。

だが、私が仲間に引き入れるに相応しい者かどうかを確かめる為、幾つかのことを問わせて貰う、と言いながらの天戒が語ったことに、私はどうしても頷けなかった。

……言いたいことが判らないではなかった。気持ちが汲めないのでもなかった。

しかし、復讐の為だけに倒幕を望み、幕府に連なる者全ての死を望み、その為には江戸の町や民を混乱に陥れてでも、との想い──否、やり口だけは、誤っているとしか思えなかったから。

故に、私が彼等の問いの全てには答えずにいたら、天戒は、今直ぐ答えは求めぬ、と言い出した。

暫くこの村に留まり、幕府のやり口とその腐敗を見定め、鬼道衆の在り方を見定め、その上で、と。

どうしても相容れず、斬り合うことになったならば、それも運命さだめだ、と。

故に、そういうことなら、と私は、暫し鬼哭村に留まろうと定めた。

彼等のことを、私はもっと能く知らなくてはならない、そんな気がした。

その裏で。

彼等と共に時過ごせば、数刻前の目覚めの時より感じていた真に不可思議な心地も、どうしても思い出せぬ様々なことも、彼等の『声や想い』のことも、思い出せぬ『声や想い』の主達も、私にも確かに届く、『皆』の声さえ無きが如くにしてみせる、強い『声と想い』の持ち主のことも、何れ知れるような気がしていた。