──京梧──
強くなりたい。己が剣だけを全てとして、誰よりも強くなりたい。
天下無双の剣が持ちたい。その頂に立ちたい。
何時か見えるだろう剣の道の果ての頂──否、きっと辿り着いてみせる、剣の道の果ての頂に立ちたい。
天下無双の剣と共に。
それが、俺の望みだった。俺の全てだった。
────だから、一歩でも天下無双に近付く為の浪々の日々を送ってた俺は、慶応二年の春、強くなる為に、天下無双の剣を持つ為に、剣の道の果ての頂に立つ為に、江戸を目指した。
江戸に行けば、俺よりも強い奴に出会えるんじゃねぇかと思った。
思い立ったが吉日と、その時の俺がいた信濃の国の下諏訪宿の近所から、真っ直ぐ甲州街道を江戸へと辿った。
──江戸の『西の端』の宿場町の、内藤新宿の一つ手前、高井戸の宿を通り過ぎた頃、俺は、薬箱をぶら下げながら俺の前を歩いてた、一人の若い女の後を、浪人風な態の男が三人ばかりで尾けているのに気付いた。
そこに荒事の匂いを嗅ぎ付け、久方振りに刀が振るえるんじゃねぇかと、俺も女の後を追った。
女は、高井戸の宿を越えて少しばかり行った所の街道端に、ひょいっと顔見せる茶屋に立ち寄った。
浪人達も、女の後を追い茶屋へと入ったから、俺も、そこの暖簾を潜った。
……訪れるのは初めての筈のその茶屋に、俺は何故か見覚えがあった。
『何時かの春』、俺は、今と同じように、こんな風な茶屋の暖簾を、こんな風に潜ったことがある、そう思えて仕方無かった。
…………けれど、どう考えても心当たりは無かった。何も思い出せなかった。
茶屋の片隅の席の一つを占め、女が、茶と団子を注文しながら一心地付け始めたから、そこで漸く、俺は目を付けた女の顔を眺めることが出来て、そうしたら今度は、初見の筈の女のツラにも、女と話し始めた茶屋の女中にも、どうにも見覚えがあるような気がして仕方無くなった。
だがやはり、心当たりも思い出せることも、一つとて無かった。
しかし、茶屋にも女にも女中にも、どうにも憶えがあるような心地は拭えなくて、どうして……、と俺は一人悩んだ。
そうこうする内に、俺は、『何時かの春』、こんな風な茶屋に、こんな風な成り行きで入って、丁度、こんな風な女と、こんな風な女中に話し掛けられてる『誰か』と言葉を交わした、との、酷くぼんやりした『夢』に取り憑かれ始めた。
…………俺に取り憑いた、酷くぼんやりした『夢』は。
何時か何処かで、俺は、『ここにはいない、けれど、ここにいた筈の誰か』に巡り逢っている。そいつは、酷く俺の心を乱す奴で、俺は──俺は、そいつの傍らに……、そいつは、俺の傍らに…………、との『幻』まで見せ始めて、とてもとても薄く浮かび上がっては、掴む前に不意と消える『幻』を見せ続けられるのが、どうしようもなく居た堪れなくなった俺は、ゆるゆると頭を振りながら、何処か逃げるように茶屋を後にした。
峠や街道筋の茶屋に寄る度、喰らうのを楽しみの一つにしてた団子さえ頼まずに発って、満開の桜が所々に姿見せる甲州街道を、内藤新宿目指して足早に進んで、暫し歩いた所にあった、見事な桜の木に、俺は目を留めた。
あの女が、俺と同じく内藤新宿目指してこの道を来るなら、ここで待ってりゃ、上手くすればあの浪人共とやり合う機会が得られるだろう、と踏んで、目に留めた桜の木に俺は登った。
占めた枝上にて桜見物と洒落込んでいたら、案の定、女と、女を追う浪人共がやって来た。
その辺りは、丁度人気が絶えていて、浪人達は、一人街道を行く女を勾引そうとした。
案の定だ、と俺は、女の悲鳴と浪人共の罵声を聞きながら、潜めていた氣と気配を解き放ち、枝より飛び下りた。
往来のど真ん中で、勾引し、なんて物騒なことをしようとする阿呆共は、遠慮なくぶっ倒すに値する連中で、そんな連中相手に得物を振るえるのは、俺にとっては願ったり叶ったりで……、なのに、どうしても。
……どうしても、『誰か』がいない、『誰か』が足りない、何故、ここにいる筈の『あいつ』がいない、と思うことを、感じることを止められず、居た堪れなさは募って。
難なく阿呆共を伸しても。
俺達のやり合いに途中から嘴突っ込んで、死合え、とか何とか吹っ掛けてた、九桐尚雲って破壊僧をやり込めても。
俺の気分は晴れなかった。
憔悴に似た何かだけが、俺の中に溜まった。
何だ彼
黄昏時の終わり、内藤新宿の宿場町が見えてきた時も。
新宿の木戸を潜った時も。
憔悴に似た何かは俺の中に溜まり続け、気分は晴れる処か、ささくれ立っていった。
俺に取り憑いた酷くぼんやりした『夢』が、『誰か』が共にいた、この成り行きには『誰か』が一緒だった、足りない、どうしたって足りない、と浮かんでは消える『幻』を一層濃くしやがったから。
────何で、酷くぼんやりした『夢』が俺に取り憑いたのか、何で、浮かんでは消える『幻』ばかりが見えるのか、どうしても判らなかった。
何一つとして心当たりは無く、思い出せることも無く。
俺は、秘かに頭を抱えるしかなかった。