──京梧──
そこから先は内藤新宿だとの証でもある木戸を潜った時は、もう、とっぷりと日が暮れてた。
かなり腹が減ってた俺は、宿を教える、と言う美里を遮って、先に飯を食える所へ連れてってくれと頼んだ。
頼みを聞いた美里が俺を連れて向かったのは、行き付けだと言う蕎麦屋だった。
そこで、先ずは天抜きと冷やでも頼もうと呼んだ親父が、ここの処、夜な夜な江戸の町を徘徊すると噂の『鬼』の話を始めた途端、本当にその『鬼』が出て、通りの向こうから聞こえてきた騒ぎへ俺達は駆け付けた。
騒ぎの元──鬼面を被った、『鬼でない鬼』だった、幕臣の命を奪おうとしてた連中を追い掛けた俺達が辿り着いたのは、龍泉寺、と言う名の廃寺だった。
そこで俺は、醍醐雄慶って名の高野山の坊主と、時諏佐百合って名の、中年増の佳人に出会った。
成り行きで『鬼でない鬼』を倒し、真の鬼に変わった奴も倒した俺達は、時諏佐百合──百合ちゃんから、聞いたら最後、後戻りは出来ねぇ、と釘刺された話を聞いた。
聞かない方が良かった、穏やかじゃねぇ話に耳貸した所為で、俺は、その夜から、龍閃組って公儀隠密の看板を背負わされることになった。
────売り言葉に買い言葉で、勢い、聞いたら最後、後戻りは出来ねぇ、と言い置かれた、龍閃組の頭だった百合ちゃんの話を聞いちまったのは、俺の不徳って奴だから、それに諦めは付いた。
龍閃組の一人となったことにも文句はなかった。
だが俺は、その夜からずっと、機嫌が悪かった。
……いや、機嫌が悪りぃと言うよりは、気持ちが悪かった。
気持ち悪さが続いた所為か、苛立ちばかり覚えた。
──酷ぇボロ寺な、けれどどうにも懐かしさを感じる龍泉寺で、龍閃組の一人として過ごし始めて直ぐに出会った、犬神って名の、得体の知れない、いけ好かねぇ野郎は兎も角、内藤新宿に仮の根を下ろしてから知り合った連中は全て、悪い奴等じゃなかった。
美里も、百合ちゃんも、雄慶も、弓道場の跡取り娘で美里の親友の櫻井小鈴も、瓦版屋の遠野杏花も、甲州街道にあった店を、内藤新宿に移した例の茶屋の女中のお花も、雄慶の師であり、百合ちゃんの『上』の円空って坊主も、『かがく』とやらの為の変な試し事ばかりをしてる絡繰り師の支奴洒門も、火付盗賊改方同心の御厨の旦那も、岡っ引きの与助も、皆々、いい奴等だった。
天下無双の剣を得る為に諸国を放浪して、その間、本当の意で独りだった俺が、何時しか懐近くに寄せちまう程、連中は。
でも、そんな、仲間となった者達全て、関わり合った者達全てに、俺は、正体の見えねぇ苛立ちと気持ち悪さを感じた。
いい奴等で、こんな俺でも懐近くに寄せられるのに、どうしても気分をささくれ立たさせずにはいらねぇ、奇妙な心地を感じた。
──俺が江戸に足踏み入れたのは、今度が初めての筈なのに、だから、誰も彼もが初見の筈なのに、俺は、仲間となった連中全てに、関わり合った連中全てに、懐かしさを憶えた。
……俺は、こいつ等を知っている。何時か何処か────否、春である今のように、『何時かの春』、俺は、こいつ等に出会ってる。……と、そう思えてならなかった。
とは言え、そんなことが有り得る筈は無く。
感じる奇妙な心地は、益々気分をささくれ立たせて、正体の見えねぇ苛立ちと気持ち悪さを俺の中で募らせた。
苛立ちを、気持ち悪さを、ささくれ立つ気分を、何とか振り払おうとの努めはした。
足掻いてみた。
だけれども、どうしても、俺はこいつ等に出会ってる、との思いは振り払えず、故に、苛立ちも、気持ち悪さも、ささくれ立つ気分も増して行く一方で、その内に俺は。
もしかして、俺は何かを忘れちまってるんじゃねぇのか、と自分で自分に問い掛け始めた。
────来る日も来る日も、俺は、自分にそんな問い掛けを続けた。
俺は何かを忘れてる。
だとしたら、忘れちまってることは何だ。
俺は、何を忘れてるんだ?
………………と。
でも、何をどう手繰り寄せても、俺が忘れちまってるらしいモノは取り戻せなかった。
……取り戻せなかった処か。
美里の後を追って、甲州街道のあの茶屋の暖簾を潜った時のように、自分で自分に問い掛けた分だけ、俺に取り憑いたままの酷くぼんやりした『夢』と、『夢』が見せる『幻』に、それまで以上に悩まされた。
『ここにはいない、けれど、ここにいた筈の誰か』。
何時か何処か──『何時かの春』に、巡り逢ってる筈の『誰か』。
俺の心を酷く乱す、俺の傍らに常にいた『誰か』。
……そんな『幻』に。
『幻』を見せる『夢』に。
俺は。
けれど、その頃。
『慶応二年の春』のその頃。
俺にとって、『夢』は夢でしかなく、『幻』も又、幻でしかなかった。
仲間となった連中を、関わり合った連中を、俺は『知ってる』ってな、俺の中の『何処か』にある『何か』の訴えと。
連中を『知ってる』ように、俺は『誰か』を『知って』いて、でも、『誰か』はいない、『誰か』は足りない、ここにいる筈の『あいつ』はいない、との、やっぱり、俺の中の『何処か』にある『何か』の訴え。
それだけが、その頃の俺にとっての真だった。
夢でしかない『夢』と、幻でしかない『幻』と、それだけは真な、俺の中の『何処か』にある『何か』の訴え。
それだけを抱え、苛立ちと、気持ち悪さと、ささくれ立つ気分と共に、俺は、忙しない日々を送り続けた。