──慶応二年 再び 〜夏〜──

──龍斗──

鬼哭村で送る穏やかだった日々は、少しずつ、様変わりを見せ始めた。

日々は、忙しなく──否、遣る瀬無くなっていった。

暦の方は、と言えば、何時しか、初夏になっていた。

春から初夏となるまでの間に、天戒達が心底倒れること願う徳川幕府が、如何に腐っているかを見せ付けられる出来事が幾つか起こった。

その出来事の最中に私が見たもの、聞いたもの、感じた人々の想い、それは全て遣る瀬無かった。

しかし。

天戒達が言う通り、幕府の全てが腐ってしまっているとは私には思えなかった。

その理由わけを、その時の私に上手く語ることは出来なかったが、一つを以て十を語るのは過ちだと私には感じられた。

それに、すっかり鬼哭村に馴染んで後も、私は、幕府を倒す為に鬼道衆が取ろうとしている法を、是と言えずにいた。

幕府によって与えられてしまった身の上を、嘆くな、などと、私には言えなかったが。

恨むな、とも言えなかったが。

恨み辛みが生んだ復讐の念に端を発する想いや誓い、それのみを振り翳して、後の世の為だと言いながら。幕府を倒す為に、自分達のような者をこれ以上生まぬ為に、と言いながら。江戸の町を、江戸の町に住まう人々を、苦しめても致し方ない、と言うのは、やはり、道理として通らぬとしか思えなかったから。

故に、そんな私の考えと、天戒や、天戒に仕える嵐王と言う名の鳥面を被った男の考えが相容れることはなく、そのような話になる度、互いの言葉も想いも擦れ違った。

……だが、私に彼等を留める術はなかった。

私などには到底思いも付かぬ、辛く悲しい思いばかりをさせられたのだろう天戒達の、歩もうとする足を留めさせるだけの言葉を私は持っていなかったし、『少しばかり遠い』程度で済んでいる、が、全く遠くない訳ではない彼等の言葉や話が、私にはさっぱり拾えぬことも多くて、知らぬ間に決まってしまった話に、只、頷きのみを返し、黙って手を貸す他ないことも多々だった。

────信濃の緋勇の家で暮らしていた時程ではなかったが、それでも少なくはなかった、彼等の誰の声も拾えず、一人取り残されてしまったような心地を覚える度。

彼等を立ち止まらせる術も持たず、彼等の言い分を道理として受け入れられず、彼等の言葉も話も拾えぬこと多い私が、本当にこの村にいて良いのだろうか、と私は秘かに思い悩んだ。

そして、思い悩んだ都度、ふ……、と。

皆の話に付いて行けず、蚊帳の外に一人置かれたような心地を味わった時、そっと求めれば、呆れた風にしながらも、私には届かなかったことの全てを語り聞かせてくれた『誰か』が、以前、私の傍らに常にいたような気になった。

何時も何時も、そうやって、私の世話を焼いてくれた『誰か』が…………────

けれど、その『誰か』が、どうしたって幻から現となることはなく。

なのに、『幻』の『誰か』の気配を覚える機会は増えて。

その日、私は、桔梗と澳継の二人と偵察の任に出ていた。

浅草門前町まで足を伸ばし、そこにて澳継と分かれ、何やら所用があるらしい桔梗の供をして吉原へ行った。

吉原でも、あの山小屋にて桔梗の声に起こされてからずっと感じていた妙な心地を感じて、何となく落ち着かなくなり、女人が『春』をひさぐ場所、と言うことだけは知っていた、けれど、私にはどうにもピンと来ない花街のことを、何とはなし桔梗に尋ねた。

ここは、本当はどういう所なのか、と。

「…………はあっ!?」

すれば、問いするや否や、桔梗は本当に目を丸くして、酷く驚いているらしい高い声を放った。

だから私は、桔梗なら……、と思い、蚊の鳴くような声で、「吉原が、女人が『春』をひさぐ場所なのだと言うことは弁えているのだが、男女の『そういう行い』は、子を生す為の行いの筈で、だから私には、この場所が能く判らない。この場所を訪れる男は、妻は娶らずとも子は欲しい、と思っているのだろうか?」と訊いてみた。

「……あ……、あっはははははは!」

と、途端に桔梗は、常に携えている三味線を抱き抱え、身を折らんばかりに笑い始めた。

「どうかしたか?」

何故、そんな風に桔梗が笑い始めたのか不思議で、私は首を傾げた。

私が尋ねたことの、何がそれ程に笑えたのか判らなかった。

そんな風に、きょとんとするしかなかった私を見詰め、桔梗は又一頻り笑い、通りの隅に私を引っ張って行き、堪え切れぬ風に時折の笑いを洩らしながら。

────男女の仲ってのは、それだけじゃないんだよ。

男は女を、女は男を……いや、人は、って言った方がいいかね。──人は、それだけの為に人を求めたりはしないよ。

愛おしいと思う誰かと抱き合いたいと思うから、人は人を求めるんだ。

子を生すとか生さないとか、そういうのは、後から付いてくるもんさ。

愛おしい誰かを求めて、その、愛おしい誰かと抱き合ったら、そいつの子が生せた。……それが、真っ当な成り行きってもんだよ。

でも、人──特に男ってのは、それだけじゃ済ませられない生き物なんだ。

たーさんも、その、男って生き物の筈なんだけど……、まあ、今は言わずにおこうか。……兎に角、男ってのは、惚れた腫れただけじゃ済ませられないこともある生き物でね。

惚れてるとか、愛おしいとか、そういうのを抜きにして、女を──時には男を、求めちまうんだよ。そういう風に、体が出来ちまってるからね。

所謂、捌け口って奴さ。

だから、金さえ出せば、一番手っ取り早い捌け口を得られる、この吉原みたいな場所に、ふらふら引き寄せられて来るのさ。

……本当に、たーさんは、そんなことも知らなかったのかい? どれだけお堅い家で育ったのさね。……ま、たーさんの昔を聞き出そうとは思わないけどね。

────桔梗は、何時の頃からか、たーさん、と呼び始めた私をもう一度見詰め、くすり、と忍び笑いつつ教えてくれた。

……桔梗のお陰で、吉原が『どういう場所』なのか、何故、ここに男達がやって来るのか、それは私にも、一応、会得出来たけれども、そう教えられて直ぐ、私は顔から火が出る程の恥ずかしさを感じ、又、桔梗に高く笑われて、居た堪れなくなり、逃げるように裏路地へと身を滑らせ。

そこで、桔梗のように三味線を抱えている、色白で、線が細くて、整った面をした遊女に出会った。

お葉、と言う名の遊女に。