──龍斗──
吉原の裏路地で出会った遊女のお葉の面を、その時、私は繁々と眺めた。
……見覚えがあったから。
だが、そのお葉は、私が知っていたかも知れぬ『お葉』と、何かが違ったから。
────私には、人が、ヒトか否かが判る。
目の前に在るモノが、ヒトなのか、物の怪なのか、鬼なのか、はたまた、所謂処の幽霊と言う奴なのか、一目で判る。
一目見た時から、桔梗には、ヒトでないモノの血が流れている──即ち、桔梗が只のヒトではないことに気付いたように。
尤も、天戒や桔梗達が、仲間や村の者達の身の上やそれまでを問おうとはせぬように、私も、桔梗や他の者達の身の上やそれまでを問おうとは思わなかったし、私が、ヒトでないモノの声を聴き、想いを汲むのを誰にも知られたくないと思っているように、桔梗とて同じだろう、と考えていたし、何故、訊かずとも桔梗にヒトでないモノの血が流れているのが解るのか、私に打ち明けられる筈も無かったから、知らぬ存ぜぬを通していたけれども。
──…………だから。
私には、出会ったお葉が、『確かにヒトである』のが判った。
けれど、当たり前以前の『それ』が、何故か、どうしても私には納得出来なかった。
私が知っていたかも知れぬ『お葉』は、『既にヒトでなかった』筈だ、との憶えが、どうやっても消せなかった。
故に私は、穴が空く程お葉の面を見詰めて、見詰め続けて……遂には俯いた。
お葉を盗み見ている内に、口で語ることは至極難しい、奇怪な想いに駆られた所為だった。
それは、彼女が『確かにヒトである』のを喜ぶ想い、けれど……、と『この先』の『何か』を嘆く想い、嘆くしかないらしい『何か』の所為で、やはり嘆くだろう『誰か』を案じる想い、その『誰か』の傍らに添えない悔しく寂しい想い、と言った、山程のモノが絡み合うように入り交じっている、持て余すしかない想いだったのに。その上、私は。
手の施しようがない程に絡んでしまった糸玉のようなその想いの向こう側に、一言で言えば、醜く汚い、と言えるモノが透けているのに気付いてしまった。
……この吉原を訪れるかも知れぬ『誰か』──私の『夢』や『幻』の中の『誰か』と、抱き合うかも知れぬ吉原の遊女達を。この町の女人を。
…………お葉、を。
『誰か』が、抱き合いたい、と望むかも知れぬ、お葉や遊女達を。羨んでいるような、妬んでいるような、醜く汚い、私の想いが。
悋気、と言うに相応しい想いが…………────。
────その為、私は唯々俯いて……、でも。
何故、悋気とも言える想いを、お葉やこの町の遊女達に対して私が抱かなくてはならないのかは判らなかった。
なのに、どうしようもなく、私の胸は苦しくなった。
『誰か』に、私だけを見て欲しい、私だけに声を、想いを届けて欲しい、と思うこと止められなくなった。
身に憶えがある筈無い想いに苛まされて、ひたすらに私が俯いていた間に、お葉と桔梗は言葉を交わし終えていた。
二人がどんな話をして、成り行きがどうなったのか一つも判らぬまま、お葉と別れ、絡んで来た侍達と一寸したやり合いをして、吉原を出た。
自分を持て余すだけしか出来なかった私は、吉原を後に出来たことに安堵し……、が、翌日、又、吉原に連れて行かれた。
桔梗が、三味線の調子を直してやると、お葉と約束を交わしていた為、私はそれに付き合うことになってしまって、もう、吉原には行きたくないのだが……、と思いつつ、渋々桔梗の供をし、又、あの町の大門を潜って、お葉のいる見世だと言う萩原屋へ向かった。
…………上がり口を通り、見世の遣り手の中年女に桔梗が話し掛けた時、二階から叫び声が聞こえた。
お葉の声だった。
故に、私達は無理矢理に見世へと踏み込んで、叫びが上がった部屋へ駆け入った。
そこには、前日、私達とやり合った三人の侍達がいて、彼等は、胸を患っていたお葉に、無体を働いた様子だった。
お葉の命が費えてしまう程の無体を。
……それは、許せるとか、許せないとか言う以前の出来事だった。
どうしようもない怒りと、又、頭の片隅に浮かんだ絡み過ぎた糸玉のような想いに私は駆られ、桔梗も我を忘れてしまった風に憤り、そんな最中に飛び込んで来た、以前、その侍達に片腕を切り落とされると言う乱暴を働かれた、弥勒万斎と言う面打ち師と共に、侍達を討った。
────お葉の仇は討てたけれども、逝ってしまったお葉が還ってくる筈も無くて。
私は、内心で打ち拉がれた。
お葉を想って。
と同時に、『誰か』を想って。
そんな出来事があった夜は、桔梗も酷く辛そうな顔をしていたけれど、翌日にはもう、何事もなかったかのように振る舞っていた。
恐らくは、身の内に抱えてしまった遣る瀬無さや憤りのような様々を、仲間達に悟られたら案じられてしまう、と考えた故に、桔梗は、そうやって振る舞ったのだと思う。
そんな彼女は、私にも何時も通りに接してきて、が、私と桔梗が語ることは、何となし、吉原に絡むことになった。
とは言え、お葉を思い出さざるを得ないような話が私達の口に上ることはなく、私達のやり取りは、私の、どうしようもない思い違いに関することへと流れて行った。
────そんな話の最中。
男女の間の『そういう行い』は、子を生す為だけに在る、と信じ込んでいた私は、誰かと惚れ合うと言うことを、どう考えていたのだ、と桔梗に問われた。
もう、今更だ、と思い、私はその問いに、途方もない恥ずかしさに耐えつつも、正直に答えた。
恋、と言う想いとて、子を生す為に在るようなものなのだろう、と思っていた、と。
そうしたら、桔梗は又、腹を抱えて笑い出し、そうじゃない、と首を横に振った。
子を生す為に、人は、誰かを恋するんじゃない。そんなことの為に、恋情は、愛おしいと言う気持ちは、この世に在る訳じゃない、と。
…………そうやって、ぽつりぽつり、桔梗と話をしている内に。
私は、彼女が、天戒に想いを寄せているのを察した。
正しく、恋、と呼べるのだろう想いを、天戒へと桔梗は抱いている、と。
……と、そこで。
私は、はた、と己を振り返った。
どうして私は、桔梗の天戒への想いが、恋である、と悟れたのだろう。
どうして、私は。
恋、と言う想いを、『知っている』のだろう、と。
………………そうだ。
私は、恋、と言う想いを知っている。
私は、『誰か』に恋をしたことがある。
……いいや、私は。
…………私は、きっと、今でも、『誰か』に恋をしている、そんな気がする。
────己を振り返った私は、その時、そう思った。
私が『誰か』に恋をしている。
……それは、『夢』でも『幻』でもなさそうだった。