──京梧──

吉原と言う、あの、囲われた町の片隅で、その遊女──お葉ちゃんを目に留めた時、俺の喉は詰まった。

何と言えばいいか……、敢えて言うなら、目を逸らしたくなるような心地を覚えたからだ。

仲間や知り合い連中同様、お葉ちゃんにも何故か見覚えがある気がして、でも、それは、辛い何かを伴ってるような気もして、俺は刹那、息が出来なかった。

でも。

俺は、「この女と会ったことは、これまでに一度もない、こんな想いを覚える理由わけなんざ何処にもない」と、自分で自分に言い聞かせた。

嘘でも何でもなかったから。

……吉原の大門を潜ったのはその日が初めてだった。

当然、お葉ちゃんに会うのも初めてだった。

それに、間違いがある筈無かった。

だから俺は、全てを振り払って、深く息をして、お葉ちゃんに声を掛けた。

話してみたら、お葉ちゃんは、萩原屋の遊女だと知れた。

部屋持ちじゃねぇけど、精一杯、三味線と小唄で、なんて健気なことを言うもんだから、俺は、彼女と登廊することに決めた。

──芸事の方は、ちょいと……、な俺でも見事だと言える三味線の腕前と小唄を、お葉ちゃんは披露してくれた。

三弦の音に耳傾けながら、杯片手に、俺は彼女と色んな話をした。

………………話をしてた最中も、弦の音に、唄に、話に────そう、『こんな夜』に憶えがある。……そんな想いは、どうしたって消え去らなく。

又、俺の喉は詰まって。

……いや。でも。

でも、やっぱり、『この夜』にも『何か』──『誰か』が足りない、そう思わずにいられなかった。

それから、数日が経った頃。

龍閃組は、吉原に出る死んだ遊女の霊と、その遊女の霊が引き起こしてる祟り騒ぎに関わった。

そして、その騒ぎの中で、俺がお葉ちゃんに『出会った』あの夜、お葉ちゃんは既に逝っちまってたことを知った。

その所為で、と言うか何と言うか……、まあ、兎に角、俺は荒れた。

てめぇでも、天晴、と言いたくなる程に荒れた。

吉原の遊女おんな達が、お葉が、浮かばれない、と嘆きながら、吉原って場所に、吉原って場所に集る連中に、浮かばれない遊女おんな達からの仕返しを、復讐を、と言った、桔梗って名の鬼道衆の女──やはり、どうにも見覚えがあった女──が許せなかった。

……俺は、火に誘い込まれるように集まる蛾みてぇに、吉原って場所が見せる桃源郷に群がる男って生き物だが、それでも、桔梗が言ったみたいな、吉原の遊女達は、どうしたって浮かばれねぇ、って言い分は解ってるつもりで、だから、気持ちが汲めねぇ訳じゃなかった。

だが。

吉原って場所があったから、今の自分が在るのだ、と。

何も知らねぇ餓鬼の頃から吉原って場所で生きて来たから、やっぱり、吉原が好きなのだ、と。

そう言ってたお葉ちゃんの魂を、幾ら浮かばれねぇからって、復讐に、仕返しに駆り立てて、何の意がある。何の益がある。…………としか思えなかった俺には、桔梗って奴が、どうしても許せなくて。

思わず俺は、「お前が、この苦界でしかない町を、遊女おんな達を、一番解ってるんだろうってことくらい、俺にだって疾っくに解ってる。だが、復讐だの仕返しだの、そんなことに何の意がある? いい加減に気付きやがれ、何時までも同じこと繰り返してんじゃねぇ!」と怒鳴りそうになって。

同じことを繰り返すな、とは、我ながら、一体どういう科白なんだ? 俺は、桔梗って女の何を知ってるってんだ? と自分で自分に驚いて。

その夜の騒ぎの全てに片が付き、龍泉寺に戻って、襖の建て付けが悪くなり過ぎた押し入れの奥から、隠しといた酒瓶を引き摺り出し、寺の裏側の縁側に一人陣取った俺は、「誰も近付くんじゃねぇ」と背中で語りつつ、酒を舐め始めた。

お葉ちゃんが逝っちまってたことが、胸に痛かった。

桔梗って女のことが、胸に痛かった。

お葉ちゃんが逝っちまってたこと、桔梗って女のこと、それを、「やっぱり……」と、頭の片隅で受け止めてる、頭がおかしくなったんじゃねぇか、としか言えないような俺自身も、胸に痛かった。

痛くて痛くて、どうしようもなく痛くて、その内に、胸の中から腹の中から、何処も彼処も苦しくなって、向かい合い始めた頃は、水よりも不味ぃ、ではあったが、それでも味を感じてた酒は、味も何も判らなくなって、俺は、ふい……、と傍らに目を走らせた。

誰もいない傍らに。

──いる筈無いのに。誰もいない、なんてこたぁ、始めっから判ってたのに。

俺の目は、俺の中の『何処か』の『何か』は、懸命に、『誰か』を探してた。

甘えたいと思う、甘えることに甘んじたいと思う、『誰か』を。

俺の傍らに添わせたいと思う、その傍らに添いたいと思う、『誰か』を。

『夢』が見せる『幻』でしかない、『誰か』、なのに。

………………その夜、俺は。

ここが、境だ、と思った。

この境を越えたら。

これ以上、知る筈の無い連中に、初めて訪れる筈の場所に、懐かしさを憶えたら。

『夢』や『幻』を見続けたら。

頭がどうにかなっちまう、そう思った。