──龍斗──

それは、少しずつ、本当の夏が近付いて来た頃だった。

その辺りのことは、私には余り聞き取れなかったのだけれど、小塚原の刑場の怨念をどうこうするとかで、その日、私と尚雲と桔梗と澳継の四人は、湯島天神に行くことになって──とは言っても、私は、湯島天神へ連れて行かれた、と言った方が正しいのだが、兎に角、私には能く判らぬ内にそういう運びになって、あの辺りで探索の任を暫しした後、尚雲が、如月骨董品店と言う店を覗きに行きたい、と言い出し、何となく心惹かれた私は、桔梗と澳継と別れ、尚雲と共に、その骨董品店のある王子村へ向かった。

そこで、それより三日後、小塚原の刑場で父御ててごが磔にされることになってしまっていた兄妹に出会ったり、如月骨董品店の老店主から兄妹の事情を聞かされたり、どうしても、小伝馬町の牢にいる父に会いたい、と願っていた兄妹の為に少々のことをしたり、何故、兄妹の父御が、磔の沙汰を下されることになったのかの、真の理由わけを知ったり、として。

鬼哭村に戻った後も、飛水流と言う、公儀隠密を務める忍一族出身の、抜け忍の奈涸──老人を装って如月骨董品店を営んでいた彼が、天戒の屋敷の広間に潜り込んで来たりして、嵐王の言い種を借りるなら、例の兄妹に絡む不憫な話に「首を突っ込み過ぎてしまった」為、小塚原で処刑された者達の怨念を……、との鬼道衆の任には、兄妹の父御を救う、との行いが足されることになった。

尤も天戒達は、『救う』との言葉を敢えて使わぬようにと、何や彼や足掻いていたが、奈涸が去った後、天戒達が、そうしよう、と定めたことは、『救う』であることに間違いはなく。

そんなことがあった日の夜更け。

私は、夜陰に紛れ、こっそり屋敷を出て行こうとする桔梗と、たまたま行き会った。

彼女は、「どうしても、お葉をあんな身の上に追い遣った連中や、吉原そのものに、お葉の三味線つくもを以て思い知らせてやらなければ気が済まない、そうでなければ、お葉が浮かばれない」と言い張り、何とか思い留まってくれぬかと紡いだ私の言葉も、私も振り切って、吉原へと出掛けて行ったが。

それより二日の後──即ち、例の兄妹の父御が磔の刑に処されることになっていた日の朝。

桔梗の、企み……と言うよりは、願い、と言った方が良いのだろうそれが、龍閃組、と言う名の、公儀隠密達に阻まれた、との話を私は聞いた。

────以前、鬼道衆の一人で、伴天連の宣教師でもある御神槌が、公儀の者達とやり合って云々、と言う話を耳にはしていたけれども、その経緯を私の耳は上手く拾えなかったので、その日まで曖昧に聞き流してしまっていた、が、心の片隅にやけに引っ掛かっていた公儀隠密達の話を改めて知って、その者達が、龍閃組と名乗っているのも知って、己でも気付かぬ内に、私の両肩はぴくりと跳ねて。

又、吉原でお葉と出会った時に感じた、手の施しようがない程に絡んでしまった糸玉のような、奇怪な想いに駆られた。

懐かしいような、誇らしいような、寂しいような、悔しいような、そんな想いに。

龍閃組、と言う公儀隠密集団の名の、その集団に与しているらしい者達の、何が懐かしくて、何が誇らしくて、何が寂しくて、何が悔しいのか、それは判らぬままに。

────そんなことがあった朝。

奇怪な想いに駆られたまま、私は尚雲と共に、小塚原での任に着く前に兄妹の様子を見ようと、再び王子村へ向かい、あの兄妹と初めて会った王子稲荷を目指した。

………………と、そこで。

王子稲荷の門前で、尚雲が、私達の方へとやって来た数名の一団に気付き、

「これは驚いた……。こんな所で会うとはな。──師匠、あいつ等を能く見ておけよ。少し、挨拶して行こう」

と言い出した。

その時も私は、奇怪な想いに駆られたままだったので、尚雲が言った一団に気付けておらず。あいつ等……? と戸惑う私を他所に、尚雲は。

「こんな所で再会するとは、正に、稲荷神のお導きといった処かな」

直ぐそこまでやって来ていた者達へと、親し気な調子で声掛けた。

「てめぇは、九恫っ……」

それに真っ先に応えたのは、陽の光で染めたと見紛う程に明るい栗色の髪を総髪に結い上げた、浪人姿の青年だった。

年の頃は私と同じくらいの、生き生きとした、強い光を鳶色の瞳に宿す男。

「そう怖い顔をするなよ。親の仇と遭った訳でもあるまいし」

「俺にとっちゃ、それよりも質が悪いぜ。てめぇから受けた屈辱、忘れようったって、早々忘れられるもんじゃねぇ」

「それを言うなら、俺も同じさ。あんなに楽しい闘いは、久し振りだったしな」

「何が、楽しい──だ。ふざけやがって…………」

その若い剣士は、尚雲が尚雲であると気付いた途端、脇目も振らずに尚雲だけを睨み付けて、文句を捲し立て始め、尚雲は尚雲で、その剣士と言い合うのを──恐らくは闘り合うのも──、楽しい、と思っているのを隠そうともせず、剣士が垂れる文句に付き合っていた。

「ん────? こっちは、お前の連れか?」

と、漸く、一応は満足するまで尚雲と言い合い、すっきりしたのだろう剣士が、私へと眼差しを振った。

「ああ。緋勇龍斗と言う」

「へぇ。緋勇、か……。無手の割にゃ、随分と強気な目をしてるじゃねぇか。機会があれば一度、闘り合ってみてぇもんだな」

私の名を尚雲から聞かされた剣士は、まじまじと私を眺めて、何となく嬉しそうに笑みつつ、そんなことを言って来た。

──………………尚雲が掛けた声に、剣士が応えた時。

私は、彼の、物心付いた時より私の傍らに在る『皆』の『声』を打ち消して、尚、余りある声に驚き、暫し、息をするのも忘れていた。

……この声は、『生まれて初めて』の、確かに私にもはっきりと届く、人の声、だ。

でも、私は、この声を『知っている』。

この、声は。

この、声の主は。

どうしても思い出せぬ、私の『夢』や『幻』の中の『誰か』の…………────

…………そう思い、唯々息詰めていた私は、恐る恐る見上げた若い剣士の姿が、自ら光を発する珠のように光り輝いて見えたことにも驚いて、再び、息するのも忘れてしまい。

尚雲の目が直ぐそこにあるのも忘れ、機会があれば一度闘り合ってみたい、お前はどうだ? と問うてきた彼へ、熱に浮かされている風な足取りで一歩近付き、にっこり笑みながら、

「何時でも」

まるで、愛おしい者よりの誘いを受けたかのように答えていた。

「あ、あのな…………」

すれば剣士は、何故か薄らと頬を赤らめて、拗ねたような顔付きになり、私から目を逸らしてしまったので、

「……あ、あの…………──

──何だ? どうした?」

私は何か、いけないことを言ったか、いけない素振りを取ったかしてしまったのだろうかと、慌てて剣士に話し掛けようとしたが、そこへ、彼の仲間らしき僧侶と二人の若い女人がやって来て、私が彼へと何とか届けようとした声は、掻き消されてしまった。

…………でも。

もう自分達は行くから、と言い出した尚雲に半ば引き摺られるように、後ろ髪引かれつつ歩き出した私に、彼は。

────蓬莱寺京梧」

「え?」

「俺の名は、蓬莱寺京梧、だ。覚えておけよ、緋勇──

あれからずっと逸らしたままだった眼差しを、確かに私へと真っ直ぐ向けて、強い声で己が名を名乗り、覚えておけ、と言った。

だから、私は。

その刹那、私だけを見詰めていた、彼の鳶色の瞳へ、こくり、と頷いた。