──京梧──
それは、江戸湾よりやって来る風が、次第に夏らしくなって来た頃、だった。
龍泉寺を、涼浬って名の、飛水流って忍の一族の、俺達と同じ公儀隠密の『くのいち』が訪ねて来た翌日。
その、涼浬ってのの知り合いだか仇だかを探すの探さないのに手を貸すことになった俺達は、初夏らしい、と言えたその日、王子村へ行った。
でも、その日の俺には、これっぽっちのやる気もなかった。
王子村、なんて辺鄙な所まで足を伸ばすことになったのは、涼浬の探してる奴がいるかも知れないって話の、如月骨董品店って店が王子村にあったからで、が、訪ねたその店は、固く戸が閉まってて。様子からして、ちいっと待ってりゃ店の主が戻って来そうな感じだったから、暇潰しを兼ね、王子稲荷を詣でることになったんだが、その時も、稲荷社へ向かいつつも、俺の足取りは酷くいい加減だった。
────朝から、これっぽっちのやる気すら俺に生まれなかったのは、涼浬って女に、『何時も』の見覚えがあったからで。
稲荷社へ向かう足が酷くいい加減なそれになったのは、成り行きに『憶え』があったからだ。
王子稲荷ってのは、関八州に住んでる奴じゃなくても名前くらいは知ってる、ってくらい有名な稲荷社だから、聞き覚えの一つや二つあったって別段おかしくはなかったが、王子稲荷の名だけなら兎も角、涼浬にも、成り行きにも、辿ってる道にも、何となくの憶えがあるのが、俺にはどうしようもなく嫌だった。
うんざりと、「又かよ……」と呟くしかなかった。
『何かに憶えがある』ってことが、その頃の俺には堪え難くなってて、頭がおかしくなりそうで、勘弁してくれ……、と胸の中では溜息ばかりを吐き出しつつ、連中の前ではそんな素振りは隠し通したが、嫌々、王子稲荷へ向かい。
途中、その日の夕刻、親父が小塚原の刑場で磔にされちまうことになってた小さな兄妹に行き会ったり何だりしながら、漸く、稲荷社の門前に俺達は辿り着いて。
………………と、そこで。
王子稲荷の門前に、『夢』でも『幻』でもない見覚えのある、ハゲ頭を俺は見付けた。
ハゲ頭、なんて言った日にゃ、雄慶の野郎が「剃髪だ!」と怒鳴りやがるんだろうなと、ぼんやり考えつつも、あのハゲ頭は──あいつは……、と思っていたら。
「こんな所で再会するとは、正に、稲荷神のお導きといった処かな」
と、太々しいくらい親し気に、ハゲ頭──桜の盛りの頃、甲州街道で、美里を勾引そうとした浪人達を叩きのめしてやった際に乱入して来た、破壊僧の九恫尚雲が、先手を打って声掛けてきた。
「てめぇは、九恫っ……」
あの時──九恫とも闘り合ったあの時、勝負に勝ちはしたものの、あいつの槍に得物を弾き飛ばされた、って屈辱を、一度だって俺は忘れたことがなく、だってのに、奴が暢気な声で話し掛けてきたから、あっと言う間に俺の頭には血が上った。
九恫以外に気を配る余裕も生まれなかった程に。
「そう怖い顔をするなよ。親の仇と遭った訳でもあるまいし」
「俺にとっちゃ、それよりも質が悪いぜ。てめぇから受けた屈辱、忘れようったって、早々忘れられるもんじゃねぇ」
「それを言うなら、俺も同じさ。あんなに楽しい闘いは、久し振りだったしな」
「何が、楽しい──だ。ふざけやがって…………」
だが、俺が、どれだけ睨み付けようとも、苦虫を噛み潰したような顔しようとも、九恫の奴は、てめぇのハゲ頭を時折軽く叩きながら、のらりくらりとしたことばかりを言うのみで。
確かにこいつの言った通り、あの時の闘いは楽しかったかも知れねぇが、今のこれは張り合いがねぇ、突っ掛かっても来やしないと、俺は、荒事には結び付いてくれそうもない手応えに、詰まらねぇな、と肩を竦め、上らせていた血も下げて────そこで、漸く。
「ん────? こっちは、お前の連れか?」
九恫の斜め後ろに、何処となく奴に隠れるようにして突っ立ってた、俺と同じ年頃らしい男に、気付くことが出来た。
つい……、と瞳巡らせて見遣った、その男は。
何故か、酷く驚いたようなツラして、俺を見詰めてた。
息さえ詰めちまってるようだった。
が、それは俺も同じだった。
見遣ったその野郎のツラは、こっちの心の臓が勝手に跳ねちまうくらい出来が良かったから。
それこそ、女と見紛うばかりに。
……だが、そいつが出来の良過ぎるツラしてた、ってだけで、俺の息は詰まったんじゃなかった。
………………憶えがあった。
『何時も』の『憶え』。
俺は、こいつを『知っている』。
確かに、俺の中の『何処か』にある『何か』が、こいつを『知ってる』と叫んでる。
『生まれて初めて』、眺めたツラだけれど。
でも、俺は。
こいつを『知ってる』。
夢でしかない『夢』が見せる、幻でしかない『幻』の中の『誰か』に、こいつは…………────。
…………そう思い、俺の息は詰まった。
「ああ。緋勇龍斗と言う」
────あいつのツラをまじまじと見遣りながら、俺が息詰めていたのは、刹那の間のことだったらしく。直ぐに、九恫の奴が、あいつの名を俺に教えた。
「へぇ。緋勇、か……。無手の割にゃ、随分と強気な目をしてるじゃねぇか。機会があれば一度、闘り合ってみてぇもんだな」
どうにも悔しいが、その九恫の声で何とか我を取り戻した俺は、何でもない風を装い、奴──緋勇龍斗に話し掛けた。
てめぇでも気付かぬ内に微笑みを湛えつつ。
その裏で、善くぞ取り繕った、と自分で自分を褒めながら。
「何時でも」
どうってことない、『只の出逢い』。
……そんな風情をわざと取って、緋勇龍斗に話し掛けてみれば、奴は何故か、熱に浮かされてるみてぇな足取りで一歩だけ俺に近付き、にっこり、と笑んだ。
笑みながら、まるで、惚れてる相手に誘いを受けた、ってな感じの声で答えた。
俺だけを見詰めながら。
「あ、あのな…………」
役者にもなれるだろうし、役者絵にしても映えるだろう、女と見紛うばかりの出来の良過ぎるツラに、極上、としか例えようのない笑みを浮かべながら、耳障りの良過ぎる声を出したあいつに、眩しい何かを見遣ってる風に目を細めつつ見詰められて。
俺の心の臓は、ぎゅっと縮んだ。
薄く頬が熱くなったのも判った。
だから俺は、何となく居た堪れなくなって、少し拗ねた風に、あいつから目を逸らした。
「……あ、あの…………──」
「──何だ? どうした?」
俺が目を逸らした途端、あいつは、迷子になっちまった餓鬼みたいな声で俺に話し掛けようとして、でも、そこに雄慶の奴が嘴を突っ込んで来たから奴の声は掻き消え、あいつと俺が話す機会は暫し失われ。やがて、九恫の奴が、自分達は忙しいから、とか何とか言い出して、立ち去り難くしてる風なあいつを引き摺るようにした。
「────蓬莱寺京梧」
故に、俺は咄嗟に、あいつに向けて、俺の名だけを告げていた。
「え?」
「俺の名は、蓬莱寺京梧、だ。覚えておけよ、緋勇──」
あれからずっと逸らしたままだった眼差しを、あいつへと戻して、真っ直ぐ、あいつだけを見詰めて。緋勇、なんて『他人行儀』な呼び方はしたくなかったが、致し方ねぇか、と少々の諦めを憶えつつ、念を押すように。
そうすれば、あいつは。
振り返り、俺の瞳を見詰めながら、こくり、と確かに頷いた。