──京梧──
遠くなってゆくあいつを──緋勇龍斗を、一度ならず、二度三度、と俺は振り返った。
このまま行かせたくない、なんて思った。
そんな風に、どうにも後ろ髪引かれてるような態ばかりを取ってたら、雄慶達に訝しまれちまって、仕方無し、
「本当に、強そうな奴だな、と思ってな」
と誤摩化して、そこから先は、緋勇龍斗、なんて奴のことは忘れちまったように振る舞ったが。
忘られる訳がなかった。
何だ彼
ずっと、あいつのことだけを考えてた。
俺は、あいつを『知ってる』らしい、と。
…………そうだ、俺は『知ってる』。
『初めて』ツラを拝んだ筈のあいつを。
そして。
あいつが──緋勇龍斗が、夢でしかない筈の『夢』が見せる、幻でしかない筈の『幻』の中の、『誰か』のような気がする、とも考えてた。
俺の中の『何処か』の『何か』が、『誰か』は緋勇龍斗だ、と大声で訴えてた。
────だから。
その日を境に、俺の『夢』や『幻』は少しずつ現に近付き、抱え続けてた、苛立ちも気持ち悪さもささくれ立つ気分も薄れ始め。
俺は、どうしても、緋勇龍斗に逢いたい、と願うようになった。
例の兄妹の親父の、どうしようもなく馬鹿な幕臣に嵌められて小塚原で磔にされる処だった男の話に絡む騒ぎが何とか落着して、又、数日が過ぎた頃。
俺達は上方へ行かされた。
京都所司代を務める松平容保に届ける、『幕府の大切な荷』とやらを積んだ船の警護をする為に。
そんな仕事は、この上もなく面倒臭く感じられて仕方無かったが、嫌とは言えねぇから、へーへー、と生返事をしつつ──その所為で、雄慶に殴られたが──俺は船に乗り込んだ。
……だが、腹割って言っちまえば、確かに面倒臭くはあったが、境の港を目指す御用船警護の任、そのものが嫌だったんじゃなく。江戸を離れるのが嫌だった。
心秘かに、どうしても逢いたいと願ってる緋勇龍斗、あいつがいるだろう江戸を離れたくなかった。
幕府の御用船を使ったって、上方までは、早くても十日近く掛かる。
とんぼ返りしたって、江戸に戻れるまでには、半月前後掛かる。
…………要するに。
船に乗っちまったが最後、半月近く、どう足掻いたってあいつに逢えない、あいつを探せない、それが、俺は嫌だった。
とは言え、そんな餓鬼の駄々のような言い分が通る筈はねぇし、俺とて、愚かとしか言えない言い分を口にするつもりはなかったから、気乗りしねぇまま上方へ行って。そのまま京まで行かされて。
慇懃この上無かった松平容保なんぞに目通りした所為で、目一杯機嫌を損ねつつ、半月の上、ご無沙汰になっちまった江戸に戻った。
────江戸に戻った俺達を待っていたのは、夏の訪れを告げる、大川の川開きだった。
後少しで川開きの日になる、って頃、巷では、怪談の送り提灯そっくりな怪異の噂と、大宇宙党ってな義賊達の噂で持ち切りで、そんな中、俺達は、両国の花火屋の職人の、武流って奴と知り合った。
武流はどうにも気が弱く、が、あいつが奉公してる『弁天屋』って店の一人娘の美弥は男勝りで、そんな二人が揃ってる所為か、弁天屋は商売敵に目を付けられてたらしく、他所の花火職人と揉めてたあいつらを助けた縁で、俺達は、一晩、弁天屋に厄介になることになった。
飯も酒も振る舞って貰った弁天屋での夜、目前に控えた、江戸中の花火職人が腕を競い合う場でもある大川の川開きに、弁天屋が出られねぇように、なんてこと考えやがった阿呆共が、店に付け火をしようとしてたのを捕らえて、噂の大宇宙党の一人が武流で、俺達も顔見知りだった、飛脚の十郎太や、何時もの茶屋のお花──本当の名は、花音、って言うらしい──も、大宇宙党の面子だった、と判ったりもして、直後。
俺達は、大宇宙党のことを探ってた九恫と出会した。
ばったり出会しただけじゃなく、闘い合う……いや、殺り合うことにもなって、その果て、あいつが鬼道衆の一員だとも俺達は知った。
────九恫が鬼道衆だってのは、何となく『知ってた』から、それは大して驚きゃしなかったが。
王子稲荷で九恫と一緒にいたあいつ──緋勇龍斗も、鬼道衆の一人なんだろうな、と思った途端、俺は思わず、「何故?」と、誰にともなく問い掛けてた。
何故、『あいつ』が鬼道衆なんだ、と。
──『あいつ』は『違う』、『そうじゃない』。
……そんなことも、俺は咄嗟に呟いた気がする。
けれど、俺の中で渦巻いた、何故だとか、どうしてとか、そんな『正体の判らない問い掛け』が落ち着いて直ぐ。
これにはきっと、訳がある。『あいつ』には『あいつ』なりの考えや訳が有る筈だと、何故だかは判らなかったが、そう思い直した。
そう思い直したら、あっと言う間に、幾度も幾度も問い掛け直さずにはいられなかった、激しい嵐みたいな気持ちは消えて、「あいつが、『今』は鬼道衆だってなら、それはそれでいい」と、俺は、何つーか……、覚悟、みたいなものを決めて。
二、三日後には、大川の川開き当日を迎える、と言う日。
一人、龍泉寺を出て、俺は、内藤新宿の中をふらふら歩き回っていた。
別段、当てがあった訳じゃない。
何時ものように、百合ちゃんが手加減なく与えてくる手習いの山から逃げる為、見回り、って建前振り翳して出掛けただけだった。
──と。
昼飯は、何時もの蕎麦屋で食うかな、とか、その前に、お花んとこの茶屋に行って団子でも頼むかな、とか、つらつら考えながら適当に足を進めていた最中、俺は、こそこそと後を尾けてくる奴がいることに気付いた。
龍閃組の看板を背負おうがどうしようが、喧嘩っ早いって癖が直る筈も無くて、鬼道衆や、良く言ってやれば『維新志士』共だけじゃなく、俺との折り合いが悪い浪人だの、ごろつきだのは幾らでもその辺に転がってたから、そんな連中の一人か? と、通りすがりの小間物屋の店先を覗く振りして窺ってみれば、驚いたことに、そこにいたのは、緋勇龍斗だった。
どうしても逢いたい、と願い続けてた、緋勇龍斗。
──物陰から、こっそり俺の様子を窺ってたあいつは、上手く氣も気配も殺してた。
それこそ、小間物屋に立ち寄る振りして、目でその姿を確かめるまで、俺にも正体が判らなかったくらいに。
あいつのそれは、あいつが何をどう間違ったって、何処に出しても恥ずかしくねぇ武道家ってのの証の如く、ちゃんとした後の尾け方、ではあった。
でも、何て言やぁいいか……、その時のあいつの風情は、こう……こっちに声掛けたいのに出来ずにいる、ってな感じの、ちょいとおどおどしてる風なそれで、何か思うことでもあるのかと見た俺は、あいつの好きにさせてみることにした。
…………そうしてから暫くの間。
俺は、笑いを堪えるのに酷く苦労した。
本当に、可笑しくって仕方無かった。
真に俺に話し掛けたいと思ってるなら、人の目がない所の方がいいだろうと、敢えて寂れた辺りを目指しつつ、時折、ちら、と盗み見れば、あいつは、まるで親鳥の後をくっ付いて歩く雛鳥みたいに俺の後を追い掛けながら、しょっちゅう、俺には『視えない何か』と話してる風な不思議な様子を取って、『何も無い所』に独り言としか思えぬ声を掛けては、はっと我に返って、又、俺の後を追う、なんてことを繰り返して。
丁度、「それで、本当に俺の後を尾けてるつもりなのか?」と、どうにも込み上げる笑いが喉の奥から洩れちまった時、やっと、あいつが俺に話し掛ける決心を固めたらしいのを察し。
もう直ぐそこは河原の、全く人気の絶えてた狭い往来の真ん中で、俺は振り返った。