──龍斗──

不意に水の匂いがしたから、もう直ぐそこは河原なのだろう、と察せられた、全く人気の絶えた往来に足踏み入れた時、私は、思い切って、蓬莱寺京梧に話し掛けた。

……否、話し掛けようとした。

「……よう。緋勇……龍斗」

なのに、意を決し、話し掛けようとした途端、往来の直中でぴたりと足留めた彼が突然振り返り、私よりも先に声掛けてきた。

「…………久しいな」

懐から抜いた左腕を腰の刀の柄に掛けつつ、何処となくからかうような声を出した彼の面は、私の欲目だったのかも知れないが、とても柔らかい笑みを浮かべていた。

私を見遣る眼差しも、同様に柔らかかった。

その笑みと眼差しを見て、良かった、と私は安堵し、が、何と返せば良いのか判らなくなってしまって、咄嗟に、少々間の抜けたことを言った。

「そうだな。確かに、久しいっちゃ久しいな。……で? 今日は何の用だ? 鬼道衆の緋勇龍斗?」

「……そ、の………………。用、と言うか……」

何処となくの上目遣いで彼を見遣りつつ、久しい、と私が言えば、彼は、そもそもから柔らかかった笑みを一層深め、何処までもからかうような声音で────でも、わざわざ、鬼道衆の、と前置き、改めて私の名を呼んだ。

……単に、からかわれているだけなのかも知れない、とは思ったが、私達の『今』が敵同士であるのを、誰あろう彼に、はっきりと告げられ、私は口籠り、眼差しを伏せた。

「…………そんな顔すんじゃねぇよ。……悪かった。一寸、からかってみだけだって。だから、下なんか向いてねぇで、こっち向け」

その時、彼が言った『そんな顔』が、どんな顔だったのか私自身には今尚判らぬけれど、彼は酷く慌てた風に、あっさり私に詫びて、自分を見ろ、と言った。

「……ああ。そうだな」

確かに、俯いていても仕方無いと思って、私は、ぎこちなくはあったけれど何とか笑みを拵え、再び彼を見た。

「で?」

「で? とは?」

「何で、俺の後を尾けて、俺に話し掛けようとした? 用か何かか?」

「用……、と言う訳ではない。その…………」

再度見遣った彼の瞳は、先程のままの柔らかさを乗せていて、あからさまに、ほ……、と私が息を吐いたら、彼は、世間話のような調子で話し出し、尾けていたのを悟っていた彼に用向きを問われ、私は又、口籠った。

「…………ま、何でもいいか」

私のそんな様子に彼は何を思ったのか、ほんの僅か、何かを悩むような仕草を取り、前触れなく伸ばした腕で私の左手首を掴むと、徐に歩き出した。

「何処へ?」

手首を掴んで歩き出される。────そうされたことを、私は別段不思議にも思わず、焦りもせず、彼と肩並べて進みながら、行き先だけを尋ねた。

「この先にな、団子屋があんだよ。折角だから、そこへ行こうと思ってよ。俺が能く行く、お花って女中のいる茶屋の方が団子も何も美味いんだが、目指してる店の方が近ぇし、客も少ない。そういう、人目に……っつーか、お前の仲間内の目に付かねぇ店の方がいいだろ? 俺と、こんな風にしてんだからよ」

すれば彼は、少々足早に歩きながら、行き先に関して、そう語った。

「…………何故?」

「何故、ってな、どういう意だ?」

「確かに私は、『今』、鬼道衆の一人だ。そしてお前は、龍閃組の者だ。だが、だからと言って、私とお前が話をしてはいけない、と言う道理はない筈だ。お前が、鬼道衆であるにも拘らず私を受け入れてくれた以上、私達が語り合えぬ道理も、逢えぬ道理も、ないと思うのだが」

気遣ってくれるのは真に嬉しかったが、私達が『こうしている』ことを、そこまで案じなくても、と思った私は、思う処を思うまま告げた。

「…………面白ぇこと言う奴だな。そりゃ、敵同士だろうが何だろうが、俺とお前が望む以上は、俺達がこうしてられねぇって道理はねぇけどよ。……でも。そう言う割にゃ、俺に声掛けるまで、随分と躊躇ってたじゃねぇか。俺達の間の道理がどうあれ、一応は敵同士な俺達が、こうしてるのを誰かに見られたら拙いことになるかも知れねぇってのは、お前にだって判ってんだろ? だから、声掛けられなかったんじゃねぇのか?」

「確かに、私とお前の立場を考えれば、私達がこうしているのは良くないのかも知れない。私やお前の仲間の誰かに見咎められることかも知れない。それくらいは、私とて弁えている。お前とこうしているなら、それを弁えた上での方が良いことも。だが、私が中々お前に声掛けられなかったのは、鬼道衆の一人である私を、お前が受け入れてくれなかったら、と思ったからだし。お前が私を受け入れてくれたのだから、私達それぞれの立場を弁えた上で、と言うことと、私達がこうしていることとは、話が別だろう?」

「…………成程。ま、理屈の内ではあるな。お前んとこの連中にしてみりゃ、屁理屈って奴になるんだろうが。────ん? と言うことは。お前、唯、俺に話し掛けたかったから、俺の後を追って来ただけなのか? で、中々話し掛けられなくって、どうしよう、って、してただけか?」

「そうだ。私が、今日、お前の後を追ったのは、お前と話がしたかったから。それだけだ」

「……そうか。それだけか」

……考えを語り、彼に話し掛けた訳を語り、としたら、彼は、私の手首は離さず、腹を抱えるようにして声立てて笑い出した。

…………鬼道衆の者として、鬼哭村で幾月を過ごしたが、私が、徳川憎し、の想いを抱いている訳ではないのも、未だに、倒幕の為には江戸の町や民達が難儀することあっても、との言い分に楯突いたままなのも、天戒達には周知で、鬼哭村の仲間達の中には、何時か、私が鬼道衆を裏切るのではないか、と秘かに疑っている者もいるから、龍閃組の一人である彼とこうしている処を誰かに見られたら、良くないことになるだろう、と言うことくらい私にも思い至れていて、故に彼の言う通り、私達の今を仲間達には知られぬ方が良いのも、弁えた振る舞いをするべきなのも、それこそ、弁えていたが。

やはり、彼に告げた通り、私は、『鬼道衆の緋勇龍斗』として、『龍閃組の蓬莱寺京梧』に逢いたかった訳ではなく、只の緋勇龍斗として、只の蓬莱寺京梧に逢いたかっただけなのだから、鬼道衆の一員であろうとも、彼が私を受け入れてくれた以上、それとこれとは話が別だ、としか思えなく。

何故、そうも笑われなくてはならないのか、さっぱり判らなかった。

だが、一頻り笑った後、私の言い分を彼は汲んでくれたようで、だってなら、と私を伴ったまま堂々と往来を進み、お花が奉公する店には味が劣ると言う茶屋に入った。

そろそろ昼餉時、と言う頃に茶屋の暖簾を二人で潜ってより、黄昏時が終わり掛けるまで。

私達は、その茶屋で、延々と語り続けた。

語り合ったのは他愛無いことばかりだったが、迂闊なことを話してしまえば、私達がそうしていたこととは又話が別の、『互いの立場故に弁えなくてはならぬこと』が顔覗かせてしまうと私にも彼にも判っていたから、私は、それだけで満足だった。

他愛無いだけの話でも、それ程の間、彼と語り合えたことが、私には幸だった。

どうしても逢いたい、と望んだ彼と、夢でなく、逢えて、語れて、幸を感じない筈は無く。

私の中の『何処か』の『何か』が訴える、『夢』や『幻』の中の『誰か』は蓬莱寺京梧なのだ、との想いは、揺るぎないものへと変わっていった。

………………本当に、真に、どうしようもなく、嬉しかった。

嬉しい、と思うのを止められなかった。

『夢』や『幻』でしかなかった『誰か』が、現となって、今、在る。

そう思ったら、幼子のように泣き出してしまいたい心地も駆られた。

……泣きそうになるのを堪えながら。

私だけを見て、私だけに、声を、想いを届けて欲しい、と、私は、その刹那も切に願った。