──京梧──
入谷田圃の稲穂が軒並み倒れちまうような、激しい野分が二、三度程やって来た、長月の終わり。
もしかしたら、俺達の辿る行く末も、今年の野分のように激しいんじゃねぇか、なんてことを、ぽつり、誰かが言い出した頃。
文月、葉月、と続いた内輪の騒ぎも収まって、誰もが龍泉寺と鬼哭村を行き来するのが当たり前になっても、肝心なことは何一つ変わらなかった。
ほとほとうんざりするくらい、来る日も来る日も、日がな一日、柳生一味に繋がる手掛かりを探し歩いたのに、誰にも、何一つ掴めなかった。
劉の野郎は何処かに行っちまったままだったし、百合ちゃんの具合も、鬼哭村の様子も、相変わらず処か、質の悪い怨霊が姿は見せねぇままヒタヒタと迫って来てる風に悪くなるばかりで、仲間内の誰もが焦り始めてた。
三日に一度は百合ちゃんの様子を見に龍泉寺にやって来てた円空のジジイも、渋いツラを拵えることが多くなって、あの犬神さえもが、百合ちゃんの付き添いをするようになった。
鬼哭村の方でも具合を悪くする村人が増え始めて、桔梗や美里達は病人の看病に追われてたし、天戒達も色々と辛そうで。皆、不安を紛らわすようにしてた。
女共は年中引っ付いてて、そんな素振りは欠片も見せねぇ野郎連中も無理矢理に鍛錬ばかりに没頭して、普段は腰の重たい奴等も、頻繁に、新宿の町や鬼哭村の様子を見て歩いてた。
風情だけは相変わらずだったひーちゃんも、実の処は参っちまってたようで、一寸したことが起こる度、俺を探しに来た。
俺に対する、ひーちゃんの物言いや行いには、少しだけ我が儘めいたものが混ざり始めて、が、そんなんは所詮、可愛い、の範疇を出ない程度のものだったから、俺は黙ってそれに付き合った。
我が儘を言ってしまったかも知れない、我が儘に振る舞ってしまったかも知れないと、そんな態をあいつが取る度、お前が一番大変だろうから気にすんな、と言ってやれる余裕が、俺には未だあったから。
そりゃ俺だって、一つも話が進まないことに対する、苛立ちや焦りを抱えてなかった訳じゃねぇが、俺は、龍泉寺の裏庭や河原へ出てヤットウの素振りをしてりゃ、大抵を頭から追い出せる質だったから、その頃でも、ひーちゃんや他の連中程は煮詰まってなかったし、ひーちゃんに一寸やそっとの我が儘を言われるのも、甘えられるのも、俺にとっちゃ喜ばしいことでしかなかったし。
俺も俺で、ひーちゃんには、それと知らぬ内に我が儘を言って、甘えて、としてるんだろうから、お互い様だ、とも思ってた。
ま、俺にだけは我が儘を言ったり甘えたりするようにはなってたが、世俗にも色恋にも疎過ぎた所為か、それとも不安だったのか、頼ってばかりでは申し訳ない、とか何とか、あいつは折に触れ訴えてきたが、それだって、俺とお前の仲に何の遠慮が要るんだ? の一言で流しちまえば済む話で。
……………………そう、その頃。
既に、俺とひーちゃんの仲は、遠慮が入り込む隙間は余りねぇ程のものになってた。
やっと、あいつを俺の物に出来たと、そう感じたあの夜からその頃までの二月半の間に、それだけの仲となれた程、俺達の付き合いは恙無かった。
正味の話、あの頃のひーちゃんがどう感じてたかまでは俺には判らねぇが、二月半の間、俺達の仲は恙無かった、それだけは確かだ。
…………だから、なのかどうなのか、それは判らないが。
疑わなかった。
その頃の俺が、それを疑うことは有り得なかった。
柳生達との戦いがどう転ぼうと、その行く末がどうなろうと、俺達は、先の先まで、こうしていられるんだろう、と。
何が遭ったって、俺達は寄り添っていられる筈だ、と。
本当に俺は、心からそう思ってた。
俺達の間に遠慮は要らねぇ、って俺の言葉を信じたひーちゃんが、俺に甘える機会を増やしていったのも相俟って。
あの頃の俺は。
信じていたんだ。心から。
────何の根拠もなしに、何が起こったって、俺とあいつは『このままでいられる』と、俺が信じてた頃。
『変な連中』が、俺達の前に姿見せ始めた。
変と言うか……、てめぇでてめぇのことを、異国の神だ、なんて名乗りやがってた連中は、訳の判らねぇこと言いながら挑んで来るような物騒な奴等が大半だったから、始めの内、連中も柳生の仲間か、と思ってたんだが、柳生達とは何の関わりもない、連中自身が言った通り、随分と遠い所にあるらしい北国からやって来た『神』で、ゆぐ何とか、とか言う樹を探して、俺達の所まで辿り着いたらしかった。
──連中のことも、ゆぐ何とかって樹のことも、御神槌の奴が異国の禁書を持ってたから判ったんだが、興味も持てない、小難しい異国の神話に絡むことなんざ、俺にはどうでもいいことだった。
詳しく聞いたって、判りゃしなかったし。
連中との関わりの中で、俺にとって唯一の要だったのは、異国の神だとほざいたあいつ等が、ひーちゃんの命を欲しがってる、ってことだけだった。
どうして、奴等が探し求めてた『樹』とひーちゃんの命が繋がるのか、俺には能く判らなかったが、どうも、ゆぐ何とかは、あいつの中に眠ってる『力』のことを指してたらしく、連中は、その『力』を目覚めさせる為だけに、ひーちゃんの命を欲しがって……、でも。
そんなこと許せる筈もねぇし、俺が、そんなことを許す筈が無いから。
御託もお為ごかしもどうでもいい、関係ねぇ、とばかりに、俺は、仲間連中と共に『異国の神』達と戦って…………────。
────そんなやり合いの最中。
確か、ろきとか言う奴が、比良坂を、自分の娘だ、と言い切った時のことだ。
派手な金色頭をしてたあの野郎に、お前は自分の娘で、黄泉の国の女王で、だからお前はヒトではないんだと、神の一族なんだと言われた比良坂が、私はヒトだと、きっぱり言い返した時のこと。
その数日前から、少しばかり何時ものとは違う物思いに耽ってるみたいだったひーちゃんの横顔が、はっきり陰った。
ほんの僅かの間だったが、確かに、あいつの面は曇った。
……不意に沈んだあいつの面を見た時、俺は、二月半前の、江戸城での場面を思い出した。
今になって思えばって奴だが、そう言えばあの時も、ひーちゃんの様子はおかしくなかったか? と。
──あの時を思い出して、遅ればせながら、あの時のあいつの様子に気付いて。…………もしかして、と俺は思った。
俺は、しくじりを犯したんじゃねぇか、って。
今の今まで、あの時、ひーちゃんの様子がおかしかったのに気付けなかったのは、拙かったんじゃねぇか、とも。
……あの時、江戸城松の間で、円空のジジイは、ひーちゃんには『黄龍の氣』がある、と言った。
異国から来た『変な連中』は、口を揃えて、ひーちゃんは『ゆぐ何とか』だ、と言った。
ヒトに非ざる、と言っても過言じゃねぇ『力』が、ひーちゃんにはある、と。
今日まで、俺はそれを重く受け止めて来なかったが、もしかしたらそれは、ひーちゃん──龍斗にとっては、酷く重いことだったんじゃねぇか。
………………そんな風に、本当に本当に遅ればせながら思った俺は、異国の神と名乗った連中とのいざこざが終わって暫く、何時も以上に、ひーちゃんの様子を窺った。
故に直ぐ、ひーちゃんが掛け値なしに沈んじまってるらしいのが手に取るように判って。或る日、二人きりで往来を行ってた時、徐に、何時も通り迷子にならねぇように手首を掴み引いてたあいつの顔を覗き込み、
「近頃のお前は、ちょいと沈んでる風だよな?」
と言ってみた。
我が儘を言ったり、甘えたり、とはしてみても、俺にも、他の連中にも極力迷惑を掛けぬように振る舞うあいつが、素直に口を割る筈は無く、案の定、あいつは、
「そんなことはないが?」
と、無理矢理笑んだ。
だから俺は、ああ、『もしかして』は当たってたと、ひーちゃんには気付かれぬよう、そっと溜息を吐いてから、
「ま、ひーちゃんが、そう言い張るんなら、俺はそれでもいいけどな。……だがな、龍斗。覚えとけ? お前はお前でしかない、って」
肩を竦めつつ、飯の献立を語ってるような口振りで、ひーちゃんが欲しがってるような気がした科白を告げ、掴んだままだったあいつの手首毎、腕を懐の中に仕舞った。
そうしてしまえば、否応無し、俺とあいつは寄り添うしかなくなると判ってたから、敢えてそうした。
誰にも──俺にも、何も言わぬまま、何かを悩んでいても、何かに苦しんでいても、お前はお前でしかなくて。
お前でしかないお前の傍らには、俺が寄り添うから、と。
あいつに伝わればいい、そう思って。
────長月の終わり、そんな出来事があって。
だから、だろうか……、それまでの二月半以上に、俺は、心から信じた。
いいや、自分で自分に誓うようにしていた。
何が遭ったって、俺と龍斗は、行く末まで、ずっと、寄り添っているんだ、と。