──龍斗──
この先の小屋に、と言ったのに、私達の先に立った彼女は、随分と長らく小走りに往来を進んだ。
気が付けば、夜陰の中に浮かぶ辺りの風景は見慣れたものになっていて、彼女が向かおうとしている先は、内藤新宿の何処かだろうと思い至れた。
けれど彼女の脚は止まらず、段々と私は、幾ら何でもおかしい、と思い始め、京梧や天戒や雄慶も、何処か疑るような目で彼女を見ていると気付いた。
故に、探りの意も込めて、本当にこちらで間違いはないのかと、何度も尋ねてみたけれど、彼女は、早く、と私達は急き立てるばかりで、このまま、彼女が向かおうとしている所へ、唯、黙って付いて行くのは……、と思ったらしい天戒が何やら言い掛けた時、漸く、彼女の脚は止まった。
そこは内藤新宿の外れで、確かに彼女の訴え通りの小さな小屋があって、一応、と中に入ってみれば、怪我など何処にも負っていない尚雲がいた。
尚雲は、柳生崇高としか思えぬ風体の男の話を彼女にされ、その小屋へ足踏み入れたらしく、疑っていた通り、私達は皆、彼女に誑かされたのだ、と悟った途端。
何処となくおどおどした風情だった彼女が、突然、高い嗤い声を放った。
────『二度目』の初夏の頃。
王子で出会った幼い兄妹の父御が、不当な罪で磔にされる処だったあの出来事の時、小塚原の刑場へ乗り込んだ私達の前に、大猿が立ちはだかった。
大猿には、外法にて、初代・服部半蔵の魂が宿されていた。
やはり、『二度目』の夏。
天戒が、等々力で美冬に天海上人の魂を降ろそうとした夜、私や桔梗達の前に現れたのは、少年の体に、桔梗の父でもある希代の陰陽師、安倍晴明の魂を降ろした者だった。
……大猿は、恐らく……、としか言えないが、そもそもの魂が天に召されてしまった後の少年の亡骸に、黄泉より安倍晴明の魂を呼び戻して宿らせたのは、柳生崇高だった。
代々、表と裏の外法の術を綴った鬼道書を伝えて来た九角家の、当代頭領である天戒にも容易には成せぬことを、あっさりと、あの男は叶えていた。
…………その時──『彼女』に、私達が内藤新宿の外れの小屋へ誘き寄せられた、その時も。
──以前に、柳生崇高によって亡骸にされてしまっていたのだろう彼女に宿されていたのは、戦国の頃の大剣豪、宮本武蔵の魂だった。
……遠い昔に黄泉へと旅立った者の魂を宿した亡骸、と言うモノに、江戸に来るまで私も巡り会ったことがなく。
そういうモノは、黄泉から舞い戻ったが故に決して縁の切れない亡者達を引き連れている為、その手のモノも視える私には、確かに、特異な者、と映るけれど、それでも彼等は、私の目にも、どうしようもなく質の悪いモノに取り憑かれているヒト、としか視えぬし、疾っくに、端からその正体を知っていただろう『皆』の声に耳を傾けている場合ではなくなっていたから、何時の間にか、手製の木刀二振りを手にしていた彼女に、宮本武蔵の魂が宿されている、と知った時には、酷く驚いて。
この世に自身を舞い戻らせた柳生に、私を斃せと命ぜられている『彼女』──否、『彼』と言った方がいいのだろう。
『彼』に、「我と戦え」と告げられて、私は、思わずまじまじと、『彼』を見返した。
…………本当に、本当に、不思議でならなかったのだ。
大猿の時も、例の少年の時もそうだったのだけれど、何故、この世の理から外れ過ぎてしまっているとしか言えぬモノが、そうしていられるのか。
だから私は、繁々と、私にとっては不可思議以外の何物でもないモノを見詰めてしまった。
唯々、不敵な嗤いを口許に浮かべる『彼』を見詰めながら、これ程のモノを容易くこの世に生める力や技を持つあの男が尚も望む、強大な大地の氣と言うのは、一体、何なのだろうか、と。
もしも、あの男が望むそれが、大地の氣──龍脈の化身たる黄龍の何かだとするなら、私は。
黄龍や龍脈に繋がるモノが流れていると『皆』に言われた私は、一体……、と。
私は一人、ひたすらに『彼』を見詰めながら考え続けて、
「加勢するぜ、ひーちゃん」
との京梧の声で、漸く我に返った。
────声に、長らく、と言える程、『彼』の面を眺めてしまっていたのだと気付かされた私は、少しばかり慌てて京梧を振り返った。
何時も通りの態で、大刀を肩に担ぎつつの京梧も、真っ直ぐ、眼差しを『彼』へと注いでいた。
……その眼差しの中には、痛い程の真剣さがあった。
魂の容れ物こそ違えど、その武勇を知らぬ者はおらぬ程の大剣豪と向き合っている一人の剣士としては当然の真剣さと、それ程の者からでも、私や仲間達を護り抜こうとする真剣さが。
…………でも。
私は確かに見てしまった。
京梧の、その眼差しの中に、『彼』と向き合う面の中に、真剣さだけでなく、乱世と言われる戦国の頃、誰よりも強いと謳われた男と戦えることに対する、喜びと輝きが滲んでいるのを。
思い掛けず齎された幸に、京梧の身が、微かに震えているのを。
再びこの世に還る為の生きた血肉が欲しい、と怨嗟の歌を歌いながら『彼』に纏わり付く亡者達をも相手にしながら、宮本武蔵、その名を持つ『彼』と対峙するのは、一言で言えば至難だった。
一度は天下無双をその手に掴んだと言う『彼』は、嘘偽り無く強かった。
それでも、戦いを終えた後、私達が立っていられたのは、『彼』が、黄泉還ったばかりで私達の前に現れたから、の一言に尽きるかも知れない。
もしも『彼』が、黄泉還りて直ぐさまではなく、幾人かの謂れなき者の命を奪いながら数日を過ごした後、私達の前に立ちはだかったとしたなら、戦いを終えた後、地に伏していたのは私達の方だったと思う。
故に──……と、言ってしまってはいけないのかも知れないが──、私達は『彼』に勝てた。
音に聞く二天一流の、天地無双と言う名の技を浴びても。
────戦いが終わり、『彼』は黄泉へと戻り、『彼』の為の器とされてしまった名も知らぬ女人の亡骸は崩れ去った。
『彼』の魂が、亡者達を引き連れ再び旅立ち、塵となった彼女の体が風に攫われて行く傍らで、傷付いた身を藍の『力』で癒して貰いながら、私は、京梧の顔色を、こっそり窺った。
……京梧も又、私や他の仲間達のように、体のあちこちから薄く血を流していた。
それは、明らかに苦戦の証で、誰よりも強く在り、一歩でも天下無双に近付きたいと、誰よりも高く在り、剣の道の果ての頂に立ちたいと、そう望み続けている京梧にとっては、もしやもしたら、無様と言える有様なのかも知れぬから……と、私は刹那、彼を案じたのだけれども。
確かに、今の己の姿は頂けない、とばかりに面を顰めながらも、京梧は。
あの『彼』との戦いの前、眼差しに、面に滲ませていた喜びや輝きよりも、尚、目映く強いモノに身の内の全てを満たしていた──ように、私には見えた。
剣の道を辿ること無い私には、決して手の届かない所に、又一歩、自ら望んで近付いてしまった如くな姿、と。
私の目には。