──京梧──

おどおどした風情の割に、女の足取りは、やけに力強かった。

そこの小屋に、と言ったくせに、ひたすら走り続けた女と、女の後を追った俺達が辿り着いたのは内藤新宿の外れで、どうせ、そんなこったろうと思ってた通りだなと、俺は小さく息を吐いた。

内藤新宿の外れにある小屋で見付けた怪我人を助ける為の手伝いを、一橋まで探しに行く奴がいる筈なんざねぇから。

だが、九恫の行方に関わりを持ってるのに間違いなさそうだったから、一応、雲水がいる、と女が訴える小屋の中に入ってみれば、そこには、ぴんぴんしてる九恫がいた。

俺達を誘い出したように、あいつも、柳生の野郎としか思えない奴を見掛けたって話で以て、その小屋へと女に誘い込まれたそうで、結局、俺達は揃いも揃って、あの姉ちゃんに誑かされたのかと、剣呑な顔して、小屋の入り口を陣取った阿婆擦れ女を振り返れば、途端、目付きも物言いも落ち着きなかった女が、いきなり、高く嗤った。

…………それは確かに、あの女の声だった。

けれど何故か、女の声とは思えなかった。

一頻り嗤ってから、徐に喋り出した女の物言いは、決して、女のそれには聞こえなかった。

────その考えは、正しかった。

女は、もう『女』としては疾っくに死人で、只の器とされたその亡骸の中には、耳を疑う奴の魂が、柳生の野郎によって宿されてた。

……宮本武蔵。

その、魂が。

…………俺でなくとも、少しでも剣の道に焦がれた者であれば、一度は憧れる相手、それが宮本武蔵って男だ。

戦国の頃、剣豪の名をほしいままにした、ひと度、天下無双を手にしたと言われる男。

──魂の容れ物こそ違えど、そんな男が思い掛けず目の前に現れて、俺は目を剥いた。

まさか、との思いが打ち消せなかった。

けれど。

他でもない、あの柳生崇高がわざわざ呼び寄せたんだから、碌なこたぁ仕出かさねぇだろうと思った通り、黄泉還って来た──黄泉還って来させられた、と言った方がいいのか──餓鬼の頃の憧れだった剣豪は、ひーちゃんを斃すだの殺すだのと、碌でもないことばかりをつらつら言って退けたから、そんな馬鹿げた戯れ言に義理でも付き合うつもりはねぇと、俺は、『奴』を真っ向から見据えた。

何時もの癖が出ちまったのか、それとも、宮本武蔵って名に、俺同様、大層な驚きを覚えたのか、ひーちゃんは本当に、まじまじ、としか言えねぇ態で『奴』を見詰めてて、動くのも忘れた風で、

「加勢するぜ、ひーちゃん」

目の前にいるのが宮本武蔵その人であろうと、俺には関わりねぇ、とばかりの声で、俺はひーちゃんに声を掛けた。

だから、だろう。

ひーちゃんは、俺の声で我に返ったように、はっと俺を振り返った。

漸く、今の『有様の中』にひーちゃんが戻って来たのを確かめて、俺は、肩に担いだ大刀の柄を、誰にも悟られねぇように握り直しながら、もう一度『奴』を見据えた。

風情だけは、何時もの俺らしく。

眼差しだけに、力を込めて。

……………………でも。

でも、俺の前にいたのは、何処までも、餓鬼の頃に一度は憧れた剣豪、その人だった。

器こそ違えど、『奴』が宮本武蔵であるのに違いはなかった。

だから、俺には。

どうしても、心の奥底から湧き上がって来る、浮き立つような心地が抑え切れなかった。

こいつは、ひーちゃんや仲間連中を斃すだなんて、おふざけを言い垂れる柳生の野郎の遣いなんだと、幾度も幾度も、てめぇ自身に言い聞かせはしたけれど。

かつて、誰よりも強い、と言われた男と。天下無双を手にした、と言われた男と。

時を越えて立ち合える。

そんな『今』に対する喜びと幸に、どうしたって俺は満たされちまって、身も心も震わせた。

ひーちゃんが、僅かだけ、何かを憂いてる風に目を細めて、じっと俺を見詰めてるのを、気にも留めずに。

────宮本武蔵。又の名を、新免武蔵守しんめんむさしのかみ 藤原玄信はるのぶ

二百有余年の時を越えて、尚、日の本にその名を轟かせ続ける、かつては天下無双を手にした剣豪は、本当に、呆れ返りたくなる程強かった。

例え、華奢でひ弱な女の体に魂を移そうとも。

死合ってる最中だったってのに、奴が荒削りな木刀を振るう度、惚れ惚れした。

ひーちゃんや俺達の命を絶つ為に向けられる切っ先の、その又先には幸があった。

決してこの目で確かめられる筈なかった二天一流の技が、そこから放たれる刹那を感じられる、と言う幸。

……夢のようだった。そして、幸せだった。

だからこそ、俺は、絶対にこの男に勝ってみせると、刀を斬り結びながら誓った。

──始めの内こそ、あいつは、薄い笑みを口許に吐きながら俺達の相手をしていて、が、やがて、痺れを切らしたように、右手のそれと左手のそれ、都合二振りの木刀を握り直すと、面の色を塗り替え、天地無双なる奥義を放ってきた。

それも又、惚れ惚れするしかない技だった。

それに比べりゃ、俺の振るった技なんぞ、みっともないの一言に尽きるものだったんだろうが、それでも俺達は、あいつからその奥義を引き出し、勝利を収めた。

……そう、死合いが終わった時、ちゃんと地べたに脚踏ん張ってられたのは、俺達の方だった。

……………………誓った通り、勝てたのだ。大剣豪の名を持つ魂に。

────やり合いは終わって、あいつは黄泉へと戻って、あいつの為の器とされた女の骸は、粉みたいに崩れ去って。ふと、てめぇの体を見下ろしてみたら、あちらこちらが切れて、薄く血を流してた。

俺だけじゃなく、ひーちゃんや他の連中もそんな具合で、無様だな、と咄嗟に俺は自分で自分を嘲笑っちまったが、駆け寄って来た美里に癒しの呪を懸けて貰った頃には、改めて、ああ、本当に武蔵は強かったんだってのと、それでも俺達は勝てたんだってのが、じわじわと、腹の底から這い上がって来るのを俺は感じてた。

這い上がって来たそれは、やがて俺の体中を満たして、どうってことない素振りを取りつつも、俺は内心じゃ、叫び出したいくらいの心地に駆られてた。

充足ってのを噛み締めてた。

……一歩。

本当に、一歩だけでしかないかも知れないが。

又、一歩、目指す天下無双へと、近付けたような気がしたから。

──────そんな風に、独り打ち震えてたその時の俺の目に映っていたのは、剣の道の果ての頂だった。

天下無双の『剣』を手にし、何時の日か、きっと辿り着いてみせると誓った頂の、幻影まぼろしだった。

…………その時の俺の目に。

ひーちゃん──龍斗は、映っちゃいなかった。

唯、どうしても辿り着きたい頂だけが。

俺の目には。