──京梧──
底冷えがするなんてもんじゃないくらい、冷え切った日々ばかりが続いた霜月が終わるのは、とても早かった。
俺にとっては、と言うだけの話なのかも知れねぇが。
でも、あ、と言う間に霜月が終わっちまったのだけは、多分確かで、この世の終わりとやらがやって来るらしい、師走が巡って来た。
『宮本武蔵』と戦ってから過ぎた約二十日、空だけじゃなく、やって来る毎日も、江戸の町も、人も、本当にどうしようもなく暗かった。
勿論、俺達も。
柳生の野郎の野望を防ぐ手立てが、どうしたって見付からなかったから。
鬼哭村の方も百合ちゃんの方も、今日も変わらずか……、と溜息を吐くしかない塩梅だったし、容保の親父が公務に戻った途端に始まった浪人狩りは、町中のあちこちで盛んに行われてたから、誰もが不安を感じてて、誰もが暗かった。
でも、その頃の俺の頭の中は、別のことで満たされてた。
俺の腹の底の、その又底の、本当に小さな本音を引き出したなら、もしかしたら、『世間で起こってることなんざ、今だけはどうでもいい』だったのかも知れない程、俺の頭は、『それ』で一杯だった。
────武蔵と戦った翌日から、俺は、暇を見付けては河原へ下りた。
幾ら『それ』で頭が一杯だった俺だって、全てのことを放り出すつもりなんざなかったし、柳生の野郎や、あの悪霊野郎を忘れられよう筈も無く、毎日、足が棒のようになるまで江戸の町を歩き回って、何とかして連中に繋がる手掛かりを探すってのは、きちんとこなしてたから、日がな一日って訳にゃいかなかったが、忙しさの合間に生まれる一寸した隙を縫っては、河原へ行ってた。
昼でも真夜中のように暗い、ごろつきも無宿人も近付かなくなった人気ないそこで、敢えて火も焚かず、闇の中、一人黙々と剣を振るった。
──俺は、どうしても、あの日に武蔵が見せてくれた二天一流の奥義、天地無双をてめぇの物にしたかった。
俺の剣の糧の一つにしたかった。
あの技にお目に掛かれたのはたった一度だけだったから、中々思うようにはいかなかったが、一度でも目にしたのだから、出来ない相談じゃなかった。
少なくとも俺は、出来る筈だと信じてた。
てめぇ等も、充分過ぎる程に武道馬鹿だ、と言いたくなる仲間連中から、本当にお前は剣術馬鹿だと言われながら、寝食忘れて、半月の間、俺は河原で刀を振り続けた。
千載一遇の好機と言えるんだろう今この時を逃したら、俺は決して、あの技に手を届かせること出来ないと、てめぇに言い聞かせつつ。
………………俺が、真っ暗な河原でそんなことを始めて、四、五日が経った頃だったろうか。
次第に、ひーちゃんが河原にやって来るようになった。
始めの内は、そろそろ夕餉になるから、とか、皆で相談したいことがあるから、とか、そんな風な『口上』引っ下げて、あいつは俺を探しに来た。
だが、武蔵とやり合った日から数えて十日が経った頃には、どう考えても言い訳としか思えない理由をわざわざ拵えて、あいつは俺を呼びに来るようになった。
誰に聞かされたかは言わねぇが、ちょいと小耳に挟んだ話によれば、ひーちゃんは、俺の河原通いを随分と気にしてたらしく、あんまりにも気にし過ぎるもんだから、俺のことは放っておけと、天戒や九恫や葛乃辺りに嗜められたらしいが、霜月のその頃、河原に行けば俺がいるのが何時しか当たり前になったように、河原にいる俺をひーちゃんが呼びに来るのも当たり前になった。
……そうこうする内、俺が河原に通い始めてから二十日近くが経った、霜月の終わりの或る日。
その日も河原に行こうとしていた俺に、ひーちゃんは最初っからくっ付いて来た。
有無も言わせずくっ付いて来たのに、提灯をぶら下げながら俺と肩並べたひーちゃんの横顔には、迷惑だったらどうしよう、とか、邪魔になったらどうしよう、とか、様々思ってると書いてあって、だから俺は、「付き合ってくれるのか?」と笑いながら言ってみたが、あいつの気分はこれっぽっちも軽くならねぇようだった。
…………でも、俺には。
少し離れた所から、ひたすら黙して俺へと眼差しを注ぎ続けるあいつに、それ以上のことが言えなかった。
薄々でしかなかったが、俺には解ってたから。
あいつが、仲間内の誰に諭されても、俺を探しに来る理由
あの日、そうしていた理由
……あいつはきっと、知ってたんだろう。
武蔵と死合ったあの時、俺の目に、あいつが映ってなかったことを。
あの日から過ぎた半月の間、俺が見ていたのは、宮本武蔵の幻であり、その幻の向こう側に広がる、剣の道の果ての頂の幻でしかないことを。
…………あの頃の俺のそんな気持ちを、あの頃のそんな俺自身を、ひーちゃんはひーちゃんなりに、解ってくれていたんだろうとは思う。
或る意味で、あいつは、俺達の誰よりも武人だったから。
剣士としての俺の気持ちが汲めないとか、そういうんじゃなくて、唯ひたすら、どうしようもなく不安だったんだろうと思う。
世俗にも色事にも疎過ぎるあいつは、誰よりも一途でひたむきだから、俺との仲に関することにも、真面目に向き合い過ぎちまったんだろう。
その所為で。
剣の道のことになれば、あいつすら瞳に映そうとしない俺が、何時の日か、自分と『剣』とを秤に掛ける日が来てしまうと、思い詰めたんだろう。
……………………そう。解ってた。その頃のひーちゃんが俺に見せてた態度も、酷く冥い顔も、多分、『そういうことなんだろう』、と。
……けれど、俺には。
じっと見詰めてくるひーちゃんの眼差しを感じながら、それまでに過ぎた約二十日のように、俺は、黙々と剣を振り続けた。
幻だけを瞳に映して。
そうしていたら、何時しか無心になれた。
それまでの半月の間も、無心、としか言えねぇ境地に辿り着けたことは数え切れねぇくらいあったが、どうしても『その先』に踏み込めず、無心の向こう側から現が舞い戻って来て、舞い戻ったそれに歯噛みする、なんてことばかりを繰り返してたのに。
その日は何かが違ったらしく、剣を振り続けてた最中、ふ……、と、「ああ、俺を包んでる筈の、闇すらも見えねぇなあ……」と思った刹那、足下から、急に、何かが湧き上がって来た。
何が湧き上がって来やがったんだか俺自身にも解らなくて、なのに何故か、湧き上がって来た『何か』をこのまま放ってみたい、ってな思いに突き動かされて、折角だからと、思うままにしてみたら。
突然、握り続けた刀の切っ先から、稲光のような光が溢れた。
溢れた光は、耳を劈くような音と、押し潰されそうな重みを伴っていて、てめぇがやってことだってのに、俺は、「何だ?」と首捻りつつ、前触れもなく瞼の裏側に鮮明に甦った、あの日、武蔵が唯一度だけ見せてくれたあの技を振るう姿を、我知らずになぞってた。
──────やがて。
爆ぜ続けてた光も音も重みも、静か、と言えるような態で、俺の前から消えた。
俺自身が生んだ全てが消えて、闇と静寂が辺りに戻って、やっと。
俺は、自分が何を会得出来たのかを悟った。
天地無双。
あの技が、俺の物になったんだ、と。
「………………帰るとするか。すまねぇな、ひーちゃん、付き合わせちまって。……そうだ、蕎麦屋にでも寄ってかねぇか?」
……俺を満たした、望んでいたモノを確かにこの手に掴んだ、との想いに暫し自分を委ねて、やっと刀を鞘に戻した俺は、ほ、と息付きながら、ひーちゃんへと近付いた。
「僅か半月で、物にしたのか? あの、天地無双を」
「僅か半月、じゃねぇな。半月も、だ」
傍らに立ったら、ひーちゃんは、明るい、嬉しそうな声でそう言ってくれて、でも俺は、それは買い被りって奴だと苦笑を返しながら、ひーちゃんが持って来てた提灯に火を入れ、翳した。
ゆらりと揺れる提灯の向こう側に浮かび上がったひーちゃんのツラは、耳に届いたばかりの声とは裏腹に、酷く沈んでた。
悲しそうに、歪んでた。
…………だってのに、俺は。
寒いだろう? とだけ言って、あいつの肩を抱き、あいつの身を、俺の胸の中に寄せた。
…………………………思い詰めてたんだろう。
あの頃のあいつは、剣の道のことになれば、あいつすら瞳に映そうとしない俺が、何時の日か、自分と『剣』とを秤に掛ける日が来てしまうと、思い詰めてたんだろう。
俺と二人織り成す恋路に、上手く向き合えずにいたんだろう。そして、不安だったんだろう。
…………解ってた。
俺は、薄々でしかないが、それを知ってた。
────そんなことにはならねぇよ、と。
そう言ってやれれば良かったんだろう。
剣を想うことと、お前を想うことは、決して秤に掛けられるようなもんじゃねぇんだ、と。
そう、言ってやれれば。
……けれど、それを言ったら嘘になっちまうような気がして、どうしても、俺には言えなかった。
悲しそうに面を歪めるあいつに、俺は、嘘を吐けなかった。
それから又、少しばかり日々は過ぎ、師走がやって来て。
再び、俺達は、出会いをした。