──龍斗──

「こいつは、『神氣』ってもんを表したもんでな」

「山……桜……?」

「神氣……?」

道歌を口にし、次いで『神氣』と言う言葉を告げた十兵衛に、私達は唯々、訝しむしか出来ず、

「『神氣』? それは……?」

「そのものが、そのものたろうとする意思こころ。あっさり片付ければ、そういうことよ」

そう簡単に、『神氣』が何たるか判って堪るか、とでも言いたげに、彼は喉の奥で笑った。

「吉野の山桜は、毎年、頼まれて咲く訳ではなかろうよ? そこには確かに、桜が桜たろうとする意思こころがある。それが『神氣』よ。──『年毎に 咲くや吉野の山桜 樹を割りて見よ 花の在処を』。……これはな、毎年春が来る度、吉野山に咲く桜の花の、その種が何処にあるのかと桜の樹を割ってまで見てみても、花の種など在りはしない。では、そこに在るのは何か。……そういう歌だ。────在るのは唯、『神氣』。桜が桜で在ろうとする心。そのものが、そのもので在ろうとする心。目には見えないそれだ」

そうして彼は、まるで、遥か昔の己を見遣っている風に私達を見回して、再び、喉の奥で忍び笑い、

「『神氣』が目には見えぬように、今のままでは、お前達に『活人剣』は見えて来ぬ。お前達には見えぬ『活人剣』は、やはりお前達にとっては無きに等しい。……だが。目には見えぬモノと、初めから無いモノとでは、能く似ているようで違う」

一転、きっぱりとした口調で、突き付けるように言った。

「我が身は既に朽ちた。弟の邪法にて黄泉より引き摺り戻された魂のみが、この老体に宿っている。だが、十兵衛が十兵衛で在ろうとする限り、柳生の──活人の剣は朽ちぬ。果てぬ。儂が儂で在る限り。────儂を斃し、生死をも超越こえて、己達が振るう剣を見出してみせよ」

………………何の為に、その剣を、その『力』を振るうのか。

それを、改めて考え直せと、彼は暗に言って。

さて、死合うとするか、と酷く軽い口調で告げると、ひょい、と腰を上げた。

崇高おとうとの奴は終ぞ儂に言わなんだが、一つ、いいことを教えてやろう。彼奴は、富士におるぞ」

手にしていた真剣の切っ先を、ふい……、と下げ様、何処までも人を喰ったような調子で私達にそう告げてから。

十兵衛────否、柳生十兵衛三厳の魂を宿されていた老人の体は、瞬く間に崩れ、塵となって消えて行った。

その魂は、亡者や魑魅魍魎を引き連れる風に、黄泉へと戻って行った。

……そう。

私達は柳生十兵衛と死合い、そして彼を斃した。

…………いいや。あの時のあの死合いは、もしかしたら、斃した、ではなく、斃せた、若しくは、そうなるべくいざなわれた、と例えた方が正しかったのかも知れない。

──あの彼が、端から私達に斃されるつもりで死合いに臨んだ、などと言うことは、到底有り得ない。

言葉通り、彼は私達を斃し遂せたら、その足で、富士へと旅立つつもりだったのだと、今尚、思う。

けれど、それでも彼は、命を賭して私達に様々なことを教え、伝えようとしたのだろうとも思う。

私達が護るべきもの。護りたいと思うものを。

護るべきもの、護りたいと思うもの、その為に柳生崇高と戦う私達が手にしなくてはならぬのは、『殺人剣』ではなく『活人剣』でなければならないことを。

……そして、『もう一つのこと』を。

────何の為に、不死身の力をも手に入れているかも知れぬ柳生崇高と戦うのか、それは、十兵衛と相対したあの時既に、私の胸の中にはあった。

江戸に来て、生まれて初めて私が手に入れられたもの。

家族にも等しいと思える、大切な、大切な者達。

私の『全て』である彼。

……私は、大切な者達を、私の『全て』である京梧を、人の世を滅ぼしたいと望むあの男から護りたかった。

大切な者達が、『全て』である彼が住まう町を、彼等が生きる人の世を、あの男から護り通したかった。

…………そう、それは、既に私の胸の中に。

だから、魂だけのモノとなり、再び黄泉へと旅立って逝った十兵衛に、私が何を護りたいのか、それは既に掴んでいるからと、私は胸の内でのみ告げて。

そう告げながら、やはり胸の内のみで、心の底よりの礼も告げた。

私達が護らなくてはならぬもの、その為に手にしなくてはならない活人剣、それ以外にもう一つ、彼が教えてくれたことへの礼を。

唯、ひたすら。

『神氣』。

そのものが、そのものたろうとする意思こころ

そんなモノが、この世にはあると言うことを、彼は教えてくれた。

「十兵衛が十兵衛で在ろうとする限り、柳生の──活人の剣は朽ちぬ。果てぬ。儂が儂で在る限り」

そんなことも、彼は語ってくれた。

ならば。

私が私で在ろうとする限り、私がナニモノで在ろうとも、私は私。

吉野の山桜が、桜で在ろうとするから咲く如く、私が私で在ろうとすれば、私は私。

……彼の、あの話を聞き終えた時、私は甚くすんなり、そう思うことが叶っていた。

無論、物心付いてからそれまで生きてきた中で、私が延々と抱え続けてきた思い煩いの全てが、『神氣』と言うモノを知っただけで、朝日の訪れと共に掻き消える朝靄の如く晴れた訳ではなかったけれど、それでも、ほんの少しばかり心が軽くなった気がしたのは確かで。

と同時に、神無月の頃から私の中に巣食っていた、京梧に対する冷たくて悲しくて重たい気持ちも、少しばかり軽くなったような気もしていた。

…………天下無双の剣を手にすること。

それを手に、剣の道の果ての頂に立つこと。

……それが、京梧の──私の『全て』である男の意思こころなら。

そう望んで止まぬことこそが、彼を彼たらしめているなら。

それこそが、恋い慕う、愛おしいと思う京梧が、蓬莱寺京梧で在る為の意思こころだと言うなら。

嘆かず、悲しまず、私は唯、それを受け入れるのみであるべきなのだろう、と、あの刹那、思えた。

彼が彼で在る為に辿る道、目指す場所、意思こころ、それをひたすらに受け入れたとて、嘆くものかと、悲しむものかと、そう誓ったとて、私は何時の日か、再び、嘆き、悲しむのだろう。

彼が、私には決して手の届かぬ所へ行ってしまう。剣の道を辿る彼の瞳に、私は決して映らない。

……そうやって、嘆き。

私は彼にとって、『剣以外の全て』だ。剣の道と言う、私の目には決して映らぬモノに彼を渡したくない。

……そうやって、悲しむのだろう。

けれど、それが、私が心から愛おしいと思う『蓬莱寺京梧』と言う男であるなら。

そうであるからこそ、彼は彼なのだと言うなら。

その為に、剣の道のみを、彼が辿ると言うなら。

私は…………、と。

────柳生十兵衛三厳と言う、希代の剣豪の魂と巡り会ったあの日、私は、そう心に定めた。

故に、何時までも、私は。

黄泉へと去った彼へと、胸の内のみで、頭を垂れ続けた。