──京梧──
俺の憶えが正しければ、あれは確か、『一度目』の慶応二年の、春の終わり頃だったと思う。
酷く強い風が吹いた次の日、百合ちゃんに言い付けられて、俺とひーちゃんと雄慶の三人で龍泉寺の裏庭を片付けてた最中、片隅の枯れ井戸──とその頃は信じてた──の、何時もはきちんと乗っかってる蓋代わりの板がずれちまってるのと、そっから中へと野良猫が転げ落ちるのを見掛けた。
そのままじゃ可哀想だってんで、縄梯子下ろした俺達は『中』に潜って、その時、枯れ井戸にしか見えない『其処』の下には、鍾乳洞みてぇな岩だらけの穴が広がってるってことと、何でかは知らねぇが、その中では倒しても倒しても異形が湧いて出るってのを知った。
だから、どうしてそんなことになってるかを無視しちまえば、修行に使える場所だ、って話になって、それ以来、俺達はそこを、時折の修行場に使ってた。
摩訶不思議としか言えねぇ『穴』の中は、延々と奥へ辿れるようになってて、本当に、飽きることなく修行に打ち込める場所で、だが、まさかそこが、富士までも続いてるってな『穴ぼこ』をも隠してるとは、思いもしなくて。まさか、ここがなあ……、とか、だったら、鬼哭村の方の『穴』も、ここの親戚みたいなもんなのかも、とか、半ば感心し切っちまってるみたいに話し合いながら、俺達は『底』へ向かった。
勿論、物見遊山がてらの散歩を……、なんて訳にゃいかなくて、次から次へと湧いて出る異形共の相手を適当にしながら地の底を目指し続けて……三百程も、短い下り坂を下りた頃だったか。
やっと、『底』に辿り着いた。
……そこは、がらん、としてて、やけに静まり返ってて、異形の姿は見えなかった。
随分と昔にも、そこまで下りた酔狂な奴がいたらしく、何か彫り付けたらしい石碑みてぇなモンがあったが、大して気に留めず、石碑の脇を素通りして辺りを探って。目を凝らせば何とか見付けられる、ってな具合の、岩の裂け目っぽい『口』を、俺達は見付けた。
一応、身を屈めずとも通れる程度の高さはあったから、抜けるに苦労はなさそうだったが、『口』の向こうから漂ってくる気配は、何と言うか、ぞっとしねぇ感じだった。
『この向こうには、黄泉が続いてる』──と言われても信じられる程で、だが、躊躇ってる暇なんぞこれっぽっちもなかったから、俺達は次々、そこを潜った。
……………………『話』がそうやって転がるまで、塒にしてたボロ寺の真下に、富士までも続く『穴』が広がってる、なんて、思いもしなかったから。
況してやそれが、黄泉の縁をも思い起こさせるような不気味な代物だ、なんてな、予想外もいいトコだったから。
唯、黙々と、何時まで経っても景色の変わらねぇ地の底の穴を進む仲間達の誰もが、身を固くしていた。
俺もそうだったし、ひーちゃんもそんな風だった。
……でも、少しばかり俯きながら、足許を見詰めて歩くひーちゃんは、何故か悲しそうにツラを歪めてた。
何で、あいつがそんなツラをしてたのかの本当の訳は俺にも判らなかったが、薄々の見当は付いた。
────踏み込んだそこは、酷く『重たい』場所だった。
通り抜けてく風も、まとわり付いて来る『気配』も重く、そして濃くて、息をするのも苦しいような気にさせられたし、肝っ玉の小せぇ奴なら、とっととケツ捲くって逃げ出すだろうくらい、誠に不気味でもあった。
……が。
地の底を貫く『穴』だってのに、絶えること無く流れてく風の中に、時折、『能く知るモノ』が織り混ざってるような気にもさせられる所でもあった。
その、『能く知るモノ』が何かと言えば、それは、ひーちゃんの氣や気配で……、だから、ひーちゃんは悲しそうなツラをしてるのかも知れねぇ、との薄々の見当を、俺には付けることが出来てた。
但、今にして思えば、敢えてって奴なんだろうが……、その時の俺は、そのことを、余り深く考えようとはしなかった。
何となし、深く考えねぇ方が、ひーちゃんの為になるような気がして。
そこが何処なのかも判らねぇまま、富士を目指して進み続けた『其処』は、何時まで経っても景色が変わらず、いい加減、俺はうんざんりしてたし、他の連中は、知らねぇ内に堂々巡りをしてるんじゃないか、なんて不安に駆られ始めてた。
だが、そうこうする内、百鬼妖堂とか言う腹立たしい野郎がちょっかい掛けて来たり、蜉蝣って、例の耳障りな笑い声を立てやがる女に待ち伏せされたりしたんで、少なくとも、進んでる路に間違いはねぇ、ってことだけは判ったが……、あの阿婆擦れ女に待ち伏せされた時、美里が、蟲毒ってのを受けちまった。
どうにも質の悪そうな毒だったし、毒の種類が判らなきゃ解毒の仕様がない、と桔梗が焦り顔をしたから、難癖付けてる場合じゃねぇと、天戒の言い出した策に乗って、のこのこ出て来たあの女をぶっ倒し、口を割らせてはみたが、観念したらしいあの女が白状したことは、少なくともこの国には、美里に放った蟲毒を抜ける物はない、ってそれだった。
蜉蝣本人にも、もう、どうしようもない、と。
…………それは、万策尽きた、との宣告だった。
美里を助ける為に出来ることなど、俺達には残されていない、との。
たった一つ、俺達に残された術は、祈ることでしかない、との。
それを悟り、俺達は途方に暮れ、小鈴の奴は泣き叫び出し、天戒は、実の妹も救えないのかと深く嘆き始めて────その時、だった。
何処かから、「こちらへ……」と俺達を呼ぶ声が聞こえた。
が、声はすれども姿は見えず、って奴で、誰の声だ? 何処にいる? と俺達はざわつき、そうする間に、体が勝手に『何か』に引き摺られた。
いきなり、見えない手か何かに引っ張られたように、体を揺らがせた俺達は益々ざわついて、戸惑って…………、と、やっぱりいきなり、俺達の目の前を、蛍が飛び交い始めた。
季節外れにも程がある蛍の光は、見る間にその数を増やし、数多の光が俺達を覆った、と思った途端。声がした時同様、突然、目の前に、一人の男が現れた。
余り良いとは言えねぇ気配を漂わせる、長い黒髪をぞろりと垂らしてる、見て呉れも、ぞろりとした男だった。
左の目許の傷痕も目立ってた。
そんな男は、うるさいだの、人の住処に足踏み入れてどうのこうのと文句を垂れて来て、が、その文句の垂れ方ってのが余りにも普通だったから、俺は小鈴と一緒になって、男の文句に言い返すのも忘れ、仲間の一人が毒にやられちまって……、と事情を語った。
「毒────は、抜いておいた。珍しい毒だったのでな、興味を持って」
そうしたら、男は、さらっとそんなことを言った。
奴がそう言った途端、熱出して唸ってた筈の美里が自分から起き上がって来たもんだから、小鈴は凄ぇ勢いで喜び出して、天戒も、大っぴらに美里の無事に安堵の息を吐いて、俺達も、奴に礼を言おうとしたんだが。
「成程。こんな所に隠れていたとはな」
喜ぶ俺達を押し退け、奴の前に出て来た劉が、厳しいツラして奴を睨み始めた。
「遂に見付けたぞ、崑崙!! この仙道士の面汚しめ!!」
結構な勢いで、崑崙って名前らしい奴の前に立ち塞がった劉は大声を張り上げて、
「そうか、お前は『勾玉』を取り返しに来たと言う訳か」
「当たり前だ! 命が惜しくば、お前が崑崙山から盗み出した我等が秘宝──、大人しく返して貰おうっ!」
「…………。お前達は、『勾玉』を持つに相応しくない」
何だ……? と、崑崙と劉の言い合いを、さっぱり事情が飲み込めねぇまま見守ってたら。
「何か能く判らねぇけど、それ、劉に返せねぇのか? 早くしないと、富士に行けなくなっちまう」
「お前達、富士に行くのか? ……そうか、何故、今頃『此処』に、お前達が現れたのか不思議だったが……、ふふふ……、物事には須く、理由があるものよ……。────我が名は崑崙。探求せし者。お前達にもっと近き知り合いを持つ者でもあるよ。……その男の名は────柳生崇高」
「何だと!! それは、どういう──」
「──柳生崇高に野望を植え付けたのが、俺よ」
何とかしろよ、その言い争い……、と仲裁めいたことを言い出した風祭の言葉を切っ掛けに、何を思ったのやら、改めて名乗った奴は、柳生の野郎を知っている、と。
あいつに下らねぇ野望を抱かせたのは自分だ、と。
徐に、白状してきた。